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エッグ・ワルツ

※参加しているオンラインコミュニティで「ゼロから小説書くぞワークショップ」課題として執筆した人生初の短編小説(1万字)です。今まで書いてみたかったけど小説なんぞ書けなかったので、講座受けて書き切れたのが嬉しく、記録に残します。有料部分は執筆までの思考道というか裏設定です。




カンッ、パカッ。

 小気味良い音を立てて割れた殻のすきまから、透明と黄色がぬるりとすべり落ち、黒いフライパンのど真ん中へと着地した。満月みたいだ。鉄板の上に広がった透明が、ふつふつと気泡を弾けさせながらゆっくり白濁していく。その端が薄く焦げ茶を帯びていくまでを、侑奈は棒立ちのまま眺めていた。

 卵は「完全栄養食」だから、毎日ひとつ食べるようにしている。3年前に体を壊し、少しずつ立ち直ってきた時に身につけた習慣だ。本当はこんなちっぽけなモノひとつじゃ健康を支えるには足りなくて、運動やら睡眠やら、やればいいことがもっといっぱいあるとは分かっている。

 だが、フライパンの上で卵を割る。焼けるのを待つ。簡単で単調なのに、自分へいいことをしていると確かに思える瞬間。これがすっかり手放せなくなっていた。

 そのせいで、侑奈の夜ごはんはここ数年いつも変わらない。サラダがわりに野菜をたっぷり入れた味噌汁と白米と目玉焼き。たまに卵の下にハムやベーコンを敷いてみたり、かき混ぜてスクランブルエッグにしてみたりするけれど、出来上がってみれば我ながら朝ごはんみたいだよなぁとよく思う。

 数年前まではもう少し“夕食らしい夕食”を作っていた。それは、いつも夜遅くに帰宅する夫の誠哉のためだった。だが侑奈が体を壊し、彼女を慮った彼が「食事は各自で自由にしよう」と提案してからは、自分で適当に作り食べ終えるのが当たり前になっていった。


 時計の針は21時をとっくに過ぎている。2LDKのマンションに1人。リビングのテーブルへ食事をよそった皿を運ぶ。

 部屋の片隅にテレビはあるものの、つける気はしない。余計に独りだと感じてしまうから。侑奈は小さくため息をついて、昔どこかの旅行先で買った赤い箸を手に取った。

「いただきます」

 しんとした部屋に声が響く。

 寂しくないの?と誰かに聞かれたら、正直うまく答えられない。確かに突然、空虚さを覚えるときはある。けれどお互い生活リズムが合わないのだ、いまさら寂しいというのもなんだろうか。
 
 塩胡椒をパッと振って、半熟の黄身をふつりと静かに箸で突く。白い皿にあざやかな黄色があふれだした。


 誠哉が帰ってきたのは23時。浴室から漏れてくるシャワーの音を、侑奈は布団の中で聴く。同じ空間で暮らしているが、夫婦の寝室は分けている。侑奈の勤務先が洋菓子店で、午前7時には仕事が始まり、早寝早起きをする必要があるからだ。
 
 シャワーの音が止む。
 意味もなく寝返りを打つ。

 結婚前は1人暮らしで、誠哉と暮らし始めてからは「他人の生活音が聴ける」だけで感動を覚える時もあったが、今やもうそんな気持ちは忘れてしまった。「自分以外の存在を確かに感じるのに触れ合うことがない」。それはひとりぼっちで部屋にいるより、はるかに、とても……。

 いたたまれない気持ちになってしまい、掛け布団を顔まで引き上げる。まぶたをきつくと閉じて、そこから先は何も考えないようにする。母親の胎内で眠る赤ん坊のように体を丸め、自分の息遣いを聴きながら、侑奈は眠りに落ちていった。

*

 住んでいるマンションから5駅先にある洋菓子店「Le Cercle(ル・セルクル)」で、侑奈はケーキの製造補助を任されている。

「今日もよろしくー」

 大柄な男が、厨房に集まった侑奈たちスタッフへいつものように飄々と声をかけた。

 182cmの長身に広い肩幅。色黒で、今にもサーフボードを抱えて海へ繰り出しにいくのではないかと思わせる筋肉質な体を、白いコックコートへ器用に納めた彼が、オーナーパティシエの蒼平だ。その体格や地肌と服の対照的な色が相まって、小さな厨房内で4人分くらいの存在感がある。

 初見では誰もが圧倒されるが、彼の苗字が隈(くま)で、好物がはちみつのバターケーキだと知ってからは「クマさん」と呼び慕う人が多い。大きな手から生み出される繊細な菓子と裏表のない性格が、パティシエとしても人としても魅力的な人物だった。


 カンッ、パカッ。カンッ、パカッ。カンッ……

 朝礼後は生地の仕込みに入る。巨大な銀のボウルへ侑奈は無心に片手で卵を割り入れていく。「1日卵1個ルール」の1ヶ月分近い量を、毎日一度に割っていく。ぶよぶよとした透明な白身の海に無数の黄身が浮かんで揺れる。ひとしきり割り終え、攪拌担当のスタッフへボウルを預けたら、他の材料の計量へ移る。朝は早いが侑奈の仕事はそこまで大変ではない。蒼平が彼女の負担にならない作業を与えているからだ。

 もともと侑奈はパティシエとして都内のホテルで働いていた。しかし上司からの理不尽な要求やプレッシャー、睡眠不足が重なり、入社して3年後に心身を壊し、休職せざるを得なくなった。
 当時、同じ厨房で働いていた先輩の1人が蒼平である。蒼平は侑奈が店を離れてほどなく、彼の父が経営する洋菓子店を継ぐためにホテルを辞めていた。
 侑奈はそのことを知らないまま最終的にはホテルを退職。しばらくの間、クッキー1枚でも見れば職場での辛い気持ちが蘇ることがあったものの、洋菓子そのものを嫌いにはなれず、療養中の散歩がてらに洋菓子店を見かければ、ついつい足を止めてしまっていた。
 ある日偶然見かけたのが、蒼平の営む「Le Cercle」。そこで再会した蒼平はボロボロになっていた侑奈を心配し、彼女が店でケーキを食べる時間は話し相手になってくれた。家にいれば独りきりが多い侑奈にとって甘い香りに満ちた蒼平の店で過ごす時間は心地良く、カサついた気持ちが安らいだ。
 定期的に通うようになり半年ほど経ったのち、スタッフや客の顔見知りも増え、だいぶ気力を取り戻した侑奈は「リハビリとしてここで仕事をしないかい?」と蒼平に誘われ、今に至る。

 彼の店で働き始めて、確かもう2年になるだろう。ストレスで7kg減った体重は少しずつ戻ったものの、すっかり体力がなくなってしまった。材料の袋を運んだり、重たい鉄板を持ち上げてオーブンへ入れたり、力仕事で苦労するのが昔はやりがいを感じて楽しかったが、もう単調な作業で十分だ。これ以上を求める必要は自分にない。

 黙々と作業する侑奈の後ろ姿を、蒼平が腕を組みながらじっと見つめていた。

*

 閉店作業を終えて帰宅中、侑奈のスマホに通知が届いていた。発信元はFacebook。知らない名前から友達申請があった。
 誰だろう。ガタゴト電車に揺られながらタップして、表示されたプロフィール写真で気がつく。
 中学の同級生だ。こんな苗字だったっけ。画面をスクロールしていくと、彼女が数年前に結婚していることを知った。直近の投稿には、彼女が夫と一緒に赤ん坊を抱えて笑う写真が添付されている。

「……__We will soon make a brief stop at__ ……」

 停車のアナウンスを聞き流しながら、侑奈は身じろぎせず、しばらくスマホを眺めていた。電車の揺れがすうっと小さくなっていく。帰ったら久しぶりにオムライスでも作ろうかな、と実は気まぐれに考えていたのだが、思いはすっかりしぼんでいた。

 侑奈が結婚したのは5年前。まだホテルでバリバリ働けていて、体と心を壊すなんて思いもしなかった頃だ。当時26歳だった誠哉と23歳で結婚したわけだから、平均より早い方だと思う。お互い若く、一緒にいたいという思いだけで籍を入れた。
 結婚後3年目から、たまに友人に「子どもは?」と聞かれるようになった。「私も夫も今は仕事に力を注ぎたいし、お金もないから」とあしらってきたのは嘘ではないが、本当のところ、侑奈は妊娠・出産を拒みたい気持ちがあった。

 彼女はあまり良い家庭で育ってこなかった過去を持つ。大人になった今は関係が悪くないとはいえ、幸せな家庭というイメージを湧かせられない自分が人を育てられると思えなかったし、実はストレスを感じると胃に物が入るだけで体が不快感を覚え、吐いてしまう癖がある。ホテルで働いていた時はそれで激痩せしてしまった。妊娠したら何があっても自分のお腹に “異物” を宿し続けなければならないなんて、考えただけで口から内臓が飛び出しそうだった。

 ただ、それを誠哉に打ち明けることはできなかった。友達に言うのと同じようなタテマエを伝え、誠哉も了承し、当面子どもは考えなくてよくなった。だが、問題を先送りにしただけであり、自分の気持ちを正直に言ったわけでもない。時が経つにつれ苦しく思う瞬間が増えていった。

 先ほどの同級生の投稿写真のように、突然目の前に現れる幸せそうな親子の姿。ハッピーエンドで結ばれて、数年後に子どもと暮らす姿が描かれる漫画の主人公。政治家の掲げる少子化問題。孫の顔を見せるのが親孝行という社会の常識。こうしたものに触れてしまうと、結婚しているのに子どもを望もうとしない自分は不自然で “悪いこと” をしているのだと罪悪感に苛まれる。

 そして何も言わないものの、時折外出先で子どもを見かけてふっと口元を緩ませる誠哉に気づくたび、心がじわりと押し潰された。


 自分は命を持てるのだろうか。

 冷蔵庫から出したばかりの卵を手にしたまま、侑奈はキッチンで立ち尽くしていた。空焚きのフライパンから小さく煙が伸びていく。あわてて濡布巾を用意し、フライパンを載せて冷ます。電気をつけ忘れた薄暗い部屋に、ジューッと音が響きわたる。

 考えない。考えない。部屋が静かすぎるのが悪いんだ。侑奈は久しぶりにテレビをつけた。何か面白いことが起きたのだろう、笑い声がドッと雪崩のように押し寄せてきた。気がまぎれる。

 いつものようにシンクの角で卵を割ろうとして、ふと侑奈の脳裏を“初めての気づき”がかすめた。

「私、ひよこを見たことがない」

*

 毎日1つ卵を食べている。蒼平の店で卵を割っている。パティシエとして生きてきたこれまで、数え切れないほど卵の白身と黄身を見てきた。
 だが本来、卵というものは「ひよこ」になるためのものだ。
 半熟だろうが固めだろうが、醤油がソースがマヨネーズが合うだろうが関係なく、そもそもあの黄色は「命」として生まれるのが本来の役目なはず。食べているのは無精卵、という野暮なツッコミは抜きにして、私は命を手にしていながら、いつもその姿が生まれる瞬間を見たことがない。

 手のひらにスッポリと収まっている白い卵。金属のようにヒヤリと冷たかったそれが、侑奈の体温でぬるく変わっている。

 ひよこが見たい。

 ふいに浮かんだその思いは、侑奈の心を駆り立てた。
 
 ひよこが見たい。卵からひよこを孵してみたい。体の中に宿すのではなく、ただ「命」を持ってみたい。そうすればなにかが分かるのではないか、なにかが変わるのではないかと思った。自分が命を持てるのか試してみたかった。自分を肯定したかった。見ないようにしてきた、心にのしかかる寂しさから、単調な毎日から、抜け出したかった。

 その晩作って食べた目玉焼きは、侑奈にとって初めて、まさに自分の血肉となっていく食べ物のような味がした。

*

「2年くらい前に入ってきた、ショートカットの女の子いるでしょ?この間ウチに来たのよ。“有精卵” をくださいって」
「有精卵?」
「スーパーには売ってないから、卵を卸してるウチに直接尋ねてみようと思ったんだって。どうやら家でひよこを孵したいみたい」

 週の終わりに納品された素材をチェックする蒼平の耳へ、卵を運んできた養鶏場の主人から思ってもいなかった話が飛び込んできた。2年くらい前。短い髪。女の子。侑奈のことだと思い当たった。

「ネットで孵卵器を買ったから、ひよこが孵るまで何に注意すればいいか教えてほしい、って言われちゃった。あの子、本気よ」

 呆気にとられた。一体何が彼女をそうさせたんだ。一切理解はできなかった。だが、くっくと笑いがこみ上げてくるのを蒼平は抑えられなかった。同じホテルで働いていた時、侑奈の向上心ある溌剌とした仕事ぶりに感心したことがある。数年後、再会したら抜け殻のようになっていた彼女を見て心配になった。幸い、菓子づくりが嫌いになったわけではなさそうなので店に誘ったものの、単純な作業を機械的に繰り返す彼女を今後どう使っていけばいいのか見極めがつかず、これで良いのかと最近悩んでいた頃だった。

「ひよこ、ひよこか」

その意味はいくら考えてもやっぱりわからなかった。だが、甲斐甲斐しく世話を焼かなくても彼女はなにかを始めようとしているのだと知らされ、蒼平は勝手に力んでいた己に気づき、自嘲と安堵にしばらくひとりで笑った。

 厨房に戻ると侑奈が卵を手にしていた。無慈悲に割られていく白い殻。相変わらずロボットみたいに作業してやがる。コック帽とマスクで表情がはっきりせず、彼女はいつもと変わらなく見える。だが養鶏場の主人の話を聞いた蒼平の目には、侑奈が卵ではなく、自分の殻を破ろうと躍起になっているように映った。

*

 キッチンでひよこを孵すことにした。

 ひよこが孵るには温度調整が何よりも重要らしい。温度や湿度が自動制御できる孵卵器を通販で買ったが、室内のどこにでも置いて良いわけではない。
 自分の寝室は大きな窓があり、寒暖差が激しいため、侑奈は考えた末にキッチンのすみに孵卵器を置くことにした。見た目でわからないよう、小麦粉製造会社の名が入った段ボール箱の中に入れる。時々、侑奈は家でお菓子を作るために店から材料を買ってくることがあるので、誠哉が見ても箱の中身は小麦粉だと考えるだろう。まさか、卵が機械の中で回転しているとは思うまい。いや、きっと一瞥しただけで、それ以上考えることもしないだろうな。

 誠哉にはバレたくなかった。どうせひよこが孵ってしまえば分かることだけど、侑奈はひよこが孵ったら、一度実家へ帰ろうと思っていた。彼女たちが住んでいるのはペット可のマンションで、鶏も一応ペットとして飼育可能な生き物だ。けれど胸をしめつける寂しさを認めてしまった今、孤独を感じるこの場所から離れたいと思うようになっていた。

 朝起きたら卵の様子を伺い、湿度を保つために機械に水を加え、夜帰ってきたら卵を気にしつつ料理をする。ひよこを孵そうとしているからといって、長年続いている「1日卵1個ルール」を止める気はしない。片や命として慎重に温め、片や食材として高温で焼きあげる。孵卵器を前にして食べる目玉焼きは妙な背徳感があった。

 1日に数回、自動で転がされている卵を見ながら、勝手に口元がほころんでいるのに気づく。侑奈の毎日はひとつの卵を中心に、ゆるやかに回り始めていた。

*

「ただいま」と言わなくなって、どれくらいがたっただろう。

 制作会社に勤める誠哉の帰宅は遅い。納品前は終電がザラだ。それでも念願の職業であり、音を上げたいとは思わなかった。毎日仕事は充実している。
 ただうっすらと気がかりなのは、侑奈のことだ。最近、平日の会話がほとんどない。でもお互い手にした仕事が大変なんだからしょうがない。

 侑奈が休職をした時、誠哉は大きな企画制作を任されており、つきっきりで彼女を看病するのは難しかった。とりあえず無理をさせないようにと自分ができる家事は引き受け、侑奈を病院や実家へ送ったり、プレッシャーにならないようそっとして置いたり、仕事に追われながらもできることをやったつもりでいる。結果、彼女は今また洋菓子店で働けるようになったのだから、間違ったことはしてこなかっただろう。

 パティシエは、侑奈が子どもの頃からの夢だったと聞いていた。夢を叶え、美しいケーキと向き合う彼女の姿が誠哉は好きだった。シフトによっては土日も出勤がある侑奈と自分の休みが偶然が重なった日、彼女が家で洋菓子を焼いているのを最近見かけることがあった。作った菓子の大半は職場に持っていくようだが、家に帰って冷蔵庫を開けた時、『お菓子を作りました。誠哉のぶん』と鉛筆で書かれた紙と一緒にラップのかかった小さな皿が置いてある。侑奈はとうに寝ているから、心の中で「ありがとう」と嬉しく思っていた。

 大丈夫。言葉がなくても自分たちは通じている。だから、今だけなんだ。侑奈もまだ本調子じゃないし。タイミングが変わればもっと会話は増えてくる。
 

 久しぶりに仕事が早く終わり、その日、誠哉が帰宅したのは20時半過ぎ。ガチャリと玄関の扉を開けるとテレビの音が聴こえてきた。珍しいな。侑奈が起きている。明日は休みなんだろうか。
 膝を抱えて見ているのは金曜ロードショーらしい。テレビ画面の中では、青い服を着た少女が肩に乗せたキツネのような小動物と一緒に、クルッと踊るようにステップを踏んでいた。いつ見ても放送しているのでは?と思わずにはいられない、名作アニメ映画だ。もちろん誠哉は観たことがある。侑奈も話は知っているはずであり飽きそうなものだが、彼女はじっと見つめている。

 部屋着に着替え、誠哉はキッチンで適当に野菜とラーメンを茹で始めた。

 しばらく前からキッチンのすみに「小麦粉」と書かれた段ボール箱が置かれている。あぁまた侑奈がお菓子を作ろうとしているんだと思った。侑奈がお菓子を焼くたびに、誠哉は、彼女が元気を取り戻しているのだと捉えていた。
 ちょっぴり嬉しくなって、麺を赤い箸でリズミカルにかき回しながら鼻歌まじりに茹でていく。仕上がった麺とスープをお椀に移そうとして、気分が浮ついていたせいだろう、手が滑った。

ガラーンッ、バシャッ。

「あっつ!」

 侑奈がサッと振り返った。ラーメンがこぼれ、汁が飛び散ったキッチンの床から湯気が立ちのぼっている。段ボール箱にも汁がかかり、染み込んだ醤油スープがゆっくりと箱の色を変えていく。

「ごめん、しくじった」

 小麦粉が湿気ってはいけないと思った誠哉はあわてて段ボールに手を伸ばす。

「だめ!触らないでっ!」

「え?」

 あんなに切羽詰まった侑奈の声は聞いたことがなかった。誠哉はビクッとして蓋を開けた手を止めたが、逆に気になってその中身をまじまじと見てしまう。侑奈がヒッと息を飲む音が聞こえた。
 粉袋、ではない。なんだ?おもちゃか?つるんと白いプラスチックのフォルムに透明の蓋がついていて、その中に楕円体のものが入っている。機械におずおずと触れてみれば、誠哉がこぼしたラーメンの汁とは違う、機械そのものが帯びている熱を感じた。その時、楕円体のものが卵だと気がつく。これは……。

「孵卵器?」

 困惑した誠哉が侑奈のほうを見ると、彼女の顔は真っ青で。開きかけて閉じるを繰り返す口からは、何も出てこなかった。

*

 土曜日。営業を終えた蒼平が店じまいを終えて帰ろうとすると、暗闇から人がするりと現れた。侑奈だった。

「……店長は、知ってますよね。私がひよこを孵そうとしているの」

 ちょっと話を聞いてもらえませんか。その声色が悲痛さを帯びているのを感じとった蒼平は、閉めたばかりの店のシャッターを無言で持ち上げる。シンとしていた夜の空気が金属の軋む音に震える。

 ケーキが並べられるショーケースを置いた空間と隣接するイートインスペースで、蒼平は侑奈と向かい合わせに座った。侑奈が働き始める前、たわいもない話を彼と交わしていた場所だ。明かりが外へ漏れないよう、店のカーテンは閉めきっている。

「えーと、とりあえず何があったの……?」

 昔からクマさんクマさんと呼ばれて何かと人の相談事に乗ることが多かった彼だが、傷ついた様子の人間にかける言葉をすぐ思いつけるわけではない。こういうときはいい感じに表情をつくり、ウンウンと首を振りながら話を聞いてやるものだ。まずは膿を出してやらなければ。極力優しげに尋ねてみると、ふつりと緊張の糸が切れたのか、彼女の口から堰を切ったように言葉があふれだしてきた。

 寂しすぎて、自分が命を持てるのか知りたくて、ひよこを育てようと思ったこと。誠哉には内緒にしていたこと。だが見つかってしまったこと。パニックになりうまく説明ができず、「卵が孵ったら私は実家に戻るの!」と言ってしまったこと。誠哉は何も言わなかったがどう考えてもショックを受けていて、お互いギクシャクしており、これからどうすべきか分からないこと。

「前から、もう私たち、愛が足りなくなっているんじゃないかと考えているんです。生活リズムが違うので疎遠になりやすいとは思っているけれど、誠哉は休みの日も踏み込んでこないし、私の体を気にしてるのか距離を置きたいのか分からないけど、いつも気を遣い過ぎていて」

孤独なんです、と出かかったのは飲み込んだ。言ったら最後、涙が止まらなくなってしまいそうだから。

「……彼は何も言わないんです。言わないだけで、もう義務や惰性で一緒にいるだけかもしれない。同じ部屋に帰ってくるだけで終わり。けど、聞いてしまったら本当のことが分かってしまう。それが怖くて、直接いろんな理由が聞けません。一度心を壊したせいか、傷つくのが本当に嫌になっちゃって……。だから先に自分から突き放したり、勝手に逃げたりすればいい。そんなことも思ってしまうんです」

 感情的に自分の思いをあふれさせていく侑奈の姿は初めて見るものであり、蒼平はかなり戸惑っていた。

 2時間くらい彼女の言葉に耳を傾けた。傷心の侑奈は全部話をしきれているわけではないだろうし、蒼平もすべての状況が分かったわけではない。ただ、相手の男は不器用なやつなんだろうなとは思った。侑奈も大概1人で考えこじらせてしまう性格だろうが、夫は_誠哉といったか_それ以上に寡黙で口下手なタイプな気がする。よくあるケースと言ってしまえばそれまでだが、どうしたら、今一番彼女に届き、心を軽くすることができるだろう。蒼平は考えながら言葉を紡ぐ。

「僕が思うに……」

「君だけじゃなく相手の彼もそうだけど、いや僕自身もそうなんだけどさ、言葉を忘れてしまうんだよね、特に“ものを作る人間”は」

「例えば今、この店で君には僕のルセットに沿ったケーキを作ってもらっているわけだけど、自分自身で新しいデザインのケーキを作るとしたら、テーマを持たせ、そのひとつにいろんな意味を込めようとするだろう?」

「僕ら(パティシエ)は1つの物事に多角的な意味を持たせられてしまう。気持ちを込めすぎてしまう。言葉を尽くそうと努力する必要がない。だからちゃんと“語る”のを忘れてしまうんだ」

「自分の想いを“見える”ものじゃなく、“分かる”ものにすること」

「……えーっと、うまく言えているか分からないけど。僕はさ、君たちに足りないのは愛じゃないと思うよ」

「ただ向き合って言葉を交わす時間なんだ」


*

 お菓子作りは分量が命だと知られている。だが基本の配合が決まっていても、その通りに作ればいいとは限らない。気温や湿度が変わるだけで、味わいは微妙に変化してしまう。繊細なケーキ生地を扱うには、“素材との対話” が必要だ。こだわるなら材料の調達から奔走し、仕入れ先と「今日の出来は?」なんて会話から始めるパティシエもいる。
 
 対話という行為は機械には真似できない、培ってきた技術と知恵のある人間だからこそできること。そんなことはずっと前から、侑奈も知っていたはずだった。
 
 溶きほぐした卵液に砂糖とバニラビーンズを加え、レンジで温めた牛乳と一緒に混ぜ合わせたものを、茶こしを通してココットへ入れる。鼻先でふわりとバニラが香る。アルミホイルで蓋をしてフライパンに乗せ、ココットの2cmほどの高さまでお湯を注ぐ。フライパンの蓋を閉じて弱火で15分、火を消してそのまま10分放置。その間に小鍋でカラメルソースを作る。グラニュー糖を入れた鍋をゆすりながら混ぜていると、次第に甘く香ばしい香りと魅力的な艶が現れる。部屋中はもうすっかり洋菓子店の匂いだ。

「た……だいま」

 誠哉の声がした。侑奈は黙ってカラメルの小鍋を火からおろし、お湯を混ぜ合わせていく。放置していたフライパンとアルミホイルの蓋を開け、ココットへカラメルを注いでいく。固まった薄玉子色の表面に、茶色のソースが波紋のように広がった。

 家で作った洋菓子を誠哉のためにとっておくことがあった。彼からありがとうの言葉もお返しも返ってくるわけではないから、別にそんなことはしなくてもいいのかもしれないが、なぜだかやめることができなかった。義務感からの行為なんだろうと、侑奈自身は思っていた。けれど蒼平と話した後、自分がどうしてお菓子を家で作り、誠哉へ残しているのか分かった気がした。

 つけっぱなしにしていたテレビを消すと、着替えを終えてキッチンへやってきた誠哉へ、侑奈はココットを真正面から突きつける。

「……おかえり」

数年ぶりに2人で食べる夕食は、出来立てのプリンから始まった。表面にカラメルがかかった2層のプリンはまだ温かく、ほろ苦く、そして後から甘味がやさしく口溶ける。静まりかえった部屋の中で、侑奈と誠哉は、互いにゆっくりと口を開いた。

*
*
*

「侑奈ちゃん、最近卵はどう?」

「もう20日くらいなのでそろそろだと思ってますよ」

 卵を運んできた養鶏場の主人に侑奈はにっこりと笑う。

「結局、住んでる部屋で飼えそうなの?」

「あんまり鳴かない雌だったら、いけるんじゃないかなあと思っています。雄だとしても、実家の親が飼いたいって言ってるので大丈夫です」

「私が引き取ることもできるから、その時は遠慮なく言ってね」

 お肉になっちゃうかもしれないけど、と本気か冗談か分からない彼のセリフを聞いて、笑みが引きつる。

「なんにせよ、卵を無事に孵してやれそうでよかったよ」

 やってきた蒼平に頭を下げる侑奈。蒼平に相談したおかげで、誠哉と向き合う勇気が湧いた。

「あれからきちんと話せたんです。思った以上にお互い勝手に物事を捉えていて、そしてちゃんと、互いを大事にしたいという考えがありました。ただずっと言葉で分かり合ってなかったんです。……あの時は突然すみません。でも、ありがとうございます」

 よかったよかった、と言いながら蒼平の顔には少しだけしんみりとした表情が浮かんでいたが、侑奈にはその意味が分からなかった。

*

 カンッ、パカッ。カンッ、パカッ。

 フライパンの上で卵を割る。焼けるのを待つ。その後に新しい工程が加わった。
 黒い鉄板の上で目玉みたいに固まった2つの黄色の間にある白身を、フライ返しで切り分けていく。皿を2枚用意して、それぞれに出来上がりを入れる。誠哉が早く帰れそうな日は連絡をもらい、侑奈が彼の分も卵料理を作って一緒に食べることにした。話をしてもいいし、テレビを観てもいい。ただ一緒にいたいのであれば、その時間をできるだけちゃんと作ろうとお互いに決めた。

 キッチンのすみには、もう段ボール箱で隠していない孵卵器がそのまま置いてある。

「ただいま」
「おかえり」

 誠哉が帰ってきた。侑奈は食卓に皿を運ぼうとして、

「あ、卵!」

 孵卵器の中で卵が揺れている。換気扇の音で気がつかなかったが、微かに鳴き声もする。あぁ本当にあの殻の中には命があったのだ、と感慨深いものがこみあげてきた。

 バタバタと上半身裸のまま、手にシャツを持って誠哉が部屋から飛び出してきた。ひよこがすぐに出てくると思ったのだろう。たしか養鶏場の主人は、卵を温め始めて20日前後になると「嘴打ち(はしうち)」が始まると言っていた。中でひよこが小さな嘴を使い、内側から殻を破ろうとしていく。これからまる1日かけて、外の世界へ出てくるのだ。そのことを誠哉に教えたら、なるほどと言って神妙な顔でシャツを着た。

「楽しみだね」
「そうだね」


カンッ、カンッ、カンッ、……。

 部屋に小さく音が響く。侑奈と誠哉はしばらくじっと、孵卵器の中で揺れる卵を見つめていた。


 食卓の上では味噌汁と白米と目玉焼きがそれぞれ2つ、静かに湯気を立てている。



Fin.



設定の記録

モチーフについて...「たまご」。小説を書く前にモチーフを決める。手元にインスタントの「たまごスープの素」があったため、たまごに決定。舞台はモチーフの卵が内包する「月」から「夜」。

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