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今日も、クリエイティブが死んだ

コンビニバイトの仕事で、タバコの販売がある。

タバコの銘柄なんて、今も未来も吸うつもりはないから、ちっとも興味はなかった。

しかしもうバイトを7年も続けていれば、「マイルドセブン」と言われてメビウスだと、「キャスター」や「キャビン」がウィンストンだと、反射的に取れるくらいには、タバコの銘柄に詳しくなった。
ワンカートンという単位が、箱何個入りかも知っている。

「職業柄、興味ないことに詳しくなることってあるよねえ~」なんて友達に笑ってみたりした。

知識が増えても吸いたいとは思わない。
客に言われた銘柄を、ただ機械的に覚えて渡すだけ。タバコはし好品ではなく、わたしにとってただの箱だ。

けれど…… あのタバコ だけは違う。

蜜柑色の、小さなタバコ。名前は echo っていう。普通のタバコより安くて小さな銘柄だ。

新しいカートンの包み紙を音を立てて破り、小さな箱を棚に並べるたびに、たまらなく寂寥を感じてしまう。


「echoをふたつ」
それが彼の口癖だった。

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初めて彼をみたとき、褐色のマシュマロマンが頭に浮かんだ。
はち切れそうなお腹を大きな白シャツと黒ジャケットで覆い、これまた黒いキャップの“つば”を後ろ被りにしていた。鼻眼鏡の奥はパッチリとした瞳で、なぜかメガホンを持つ監督業をわたしに連想させた。

常連さん、と従業員の間で知られるくらいにはそこそこの頻度で来ており、毎回買うのは決まって同じもの。

BOSSのブラックコーヒーと何かと、何かと、

蜜柑色のecho。

コーヒーはその日の気温でホットやアイスに変わった。

けれど、echoは決まって、いつもふたつ。

ゴトリと音を立ててカウンターにコーヒー缶を置いた後、ふくよかな指を顔の横でVにして、わたしに言うのだ。

「echoをふたつ」

その言葉が終わるか終わらないかのうち、わたしはすでに取ってきた蜜柑色のパッケージを彼の前に置いている。マシュマロマンはにっこり笑い、大きな体をゆらしながら店を出ていく。何日かした後で、またコーヒーと煙草を注文しにやってくる。

そんな日々を2年以上繰り返した。

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echo なんて、どうしてそんな名前なのかと、彼のおかげで初めてタバコに興味が湧いた。

ギリシア神話に、"エコー"という孤独な妖精の少女がいる。彼女はおしゃべりがキッカケで神の怒りを買い、他人の言葉を繰り返すだけで、自分からは何も話しかけることができないようにされてしまった。

森に身を隠し、孤独に過ごしていたエコーだが、ある日、絶世の美男子・ナルキッソスに出逢う。

(※ナルキッソスといえば、川に映った自分の顔に見惚れて死に、自己愛=ナルシシズムの元ネタとなった仰天エピソードがあるのだが、これはまだ彼が川を見る前に森で迷子になっていた時期の話だ)

トム・クルーズすら叶わないであろうイケメンの彼に、エコーも一目惚れをした。

道に迷っていたナルキッソスは、物陰から自分を見ていたエコーに気づき、話しかける。

しかしなんということだろうか。彼女はナルキッソスに話しかけられてもオウム返しすることしかできないのだ。

エコーは彼に怖がられ、ひどく拒絶されてしまう。

自分の思いを伝えることが出来ず、彼女悲しみのあまりやせほそり……ついに身体のない声だけの存在になってしまった。

だから「木霊・反響・残響」を意味する英単語が、echo なのだ。

そんな名前がつけられたタバコは、一体どんな味がするのだろう。

わたしはタバコを吸わない。副流煙で咳き込む不快感しか知らない。
だから、タバコを吸う人というのはあの香りを美味しいと思うのだろうか、同じ人類なのだろうか、とすら思っている。不思議で不思議で仕方がない。

マシュマロマンの彼はいつ頃から、どうしてタバコを吸い始めたのだろう。

知人には「カッコいいから」と浅い理由で吸い始めた人、親が吸っており当たり前のように匂いに慣れていた人、ストレス発散で吸い始めた人などがいる。

彼の場合はどういう理由かはわからない。だが、タバコを頼むとき、いつも疲れたような顔をしていたかもしれない。

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いつものようにアルバイトをしていると、店の電話が鳴った。店長が取った。その後ろでわたしは黙々とタバコの補充に明け暮れていた。

しばらくして休憩に入る。

レジ裏の事務所で昼ごはんの明太子パスタを食べていると、パソコンで発注をしていた店長が、画面を見たまま、誰に向けるでもなくぽつりと言った。

「さっき警察から電話があって……」

続いた言葉は、わたしを呆然とさせた。
食べていたパスタのフォークが滑り落ちて床にあたり、コトンと乾いた音を立てる。

マシュマロマンの彼が、亡くなった。

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詳しい状況は聞かなかったから分からない。

ただ、数日前から音沙汰がなかったこと。
知人の通報で警察が部屋に入り、すでに死んでいる彼が見つかったこと。
彼の携帯の着信履歴を辿ったら、最期に電話をかけたのがこの店であったこと。
そうして警察から、彼の死が私たちの元に明らかになったこと。

店長とオーナーがそういうことを話しているのを、わたしは黙って聞きながら、考えていた。

echoをふたつ。

そう言って出されたふくよかな手に、ポンと蜜柑色のタバコを渡したのはいつのことだったろうか。あまり定かではないけれど、5日ほど前かもしれない。わたしが対面したその時、すでに彼には死神が忍び寄っていたのだろうか。渡した際に少しだけ触れた手の先に、すでに死が存在していたのだろうか。

最期の電話は店長が出た。

echoをワンカートン、次に来るときまで取り置いてほしいとのことだった。

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どこから情報を持ってくるのか、噂好きのパートさんの話によれば、彼はある制作会社のクリエイティブ職だったらしい。勝手に監督風だと思っていたが、やはりなんとなく近いものがあったようだ。連日忙しかったに違いない。褐色だから肌の色はよく分からなかったが、思い返してみれば、いつも目の下にクマがあったような気がする。

制作会社はブラックだという印象がある。

作り続けることは、命を削ること。
わたしも、クリエイターのはしくれだから良く分かる。

彼はどれだけ寝ていたのだろうか?どんな生活をしていたのだろうか?

彼と同じような境遇にいる誰かが、どこかにまだいるかもしれない。
短いタバコの煙をくゆらせて、何かを堪えているかもしれない。
そして、そして……

見たこともない"彼"の自室が、勝手にわたしの頭に思い浮かぶ。

パソコンの青い光に煌々と照されて倒れている彼のそばには、蜜柑色のタバコが、くしゃりと歪んで立っていた。

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はたしてわたしが渡していたタバコが彼の寿命を縮めたのか、それともストレス解消として彼にとって幸福ではあったのか。自分が天使か悪魔の手先になったのかはさておき、もうechoをふたつ渡すことはないのだと、小さな蜜柑色のタバコを見るたびに思う。

彼のことは、このタバコが好きだった、ということしか知らない。

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そんなことがあってから、無茶な働き方をしていた自分も休みを覚え、夜は寝るに努めるようになった。

1968年から発売されていた echo も2019年9月に廃止され、蜜柑色のパッケージは茶色い「エコー・シガー」となった。もういくらアルバイトをしていても、echoを頼む人も、蜜柑色のパッケージを探すこともなくなった。

だがわたしはいつも、echo を覚えている。棚に並ばなくなっても、いつもそこに見えている。

わたしの中であのタバコと彼は紐づいており、ずっと生き続けているのだから。

以来、森に隠れていて、山にはその姿が見られない。ただ、声だけがみんなの耳にとどいている。彼女のなかで生き残っているのは、声のひびきだけなのだ。
___2009年 岩波書店 オウィディウス 中村善也訳 『変身物語:妖精エコーの話』(上) P116

生きていきます。どうしようもなくても。