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毒を食う

毒を食うのは、誰の目から見ても明らかな弱点をなくしたいから。キルアinゾルディック家みたいなもの。別に毒を美味しいと思っている訳ではない。勿論毒というのは、私の苦手なものの比喩である。

大学生の頃に東南アジアを2週間周遊した。金がなさ過ぎて、なさ過ぎたのに周遊した(その時点での全財産をつぎ込んだのでテレビ番組でもないのに設定上限金額があった)ので、すべての宿は500円~1000円以内のドミトリーにした。そのレベルの安宿ともなると、シャワー室は「普通にゴキブリの出るトイレの便座の上に水が出るシャワーヘッドがある」てなもんである。私はものともせず、同行していた人に「冷たくて気持ちいいすねー」「実家もゴキブリいっぱいいますからねー」などと無意味に物怖じしない態度を貫いていた。
けれど、何なら私はGは嫌い(苦手)だし、水回りが不衛生なのは鳥肌が立つくらい苦手である。これは毒を食っている。ある種の修行であるが、そこまで高尚でもなく、行き当たりばったりの、自己正当化である。なので、毒を食っているくらいの表現がちょうどいいと思う。

大学生くらいまでは結構露骨にそういうところがあった。しかし社会人になって東京に出たからなのか、有象無象の中に埋もれない自分づくりの一環として、これでは平均人間にしかならないとか、意思表示の大事さとか、選択肢を絞ることの大事さとかに重きを置いていたので、久しくこの感情は忘れかけていた。

ここ2年の自分の思想を占めていたのは適材適所で、自分の良さを最大限に発揮する環境に移るもしくは自分で作る、という気持ちを第一優先に動いていたし、常にそれを念頭に置いて自分研究をしていたので、少し前まで自分の座右の銘くらいの位置にいたはずの「毒を食う」は、近年の私からすれば「毒なんか食ってたら体調崩してできることもできなくなるだろ」くらいに格下げされていた。ということに、最近気が付いた。

多分これは、どっちがいいとかではなく、振り子で、最近あまりにも毒を食わないためにその罪の部分が目立つようになってしまったのだろうと思う。これに気づいたのはなんでかというと、「なんか気が合う人って一人もいないんじゃないか」なんて思ったからである。

毒を食わずにいると、居心地のいい環境ができすぎて非寛容になる気がする。だから最近心穏やかに対処できることが減ってきている気がする。余裕がなくなってきている気がする。そうやって取捨選択をしすぎて、大したこともないのに譲れない矜持みたいなのが身動きをとりづらくしている気がする。それを避けたくて毒を食っていたのに、最悪である。

矜持めいたものができることでそれなりに「正しく」「まともに」振舞いたいというしょうもない意識が顕在化して、それなのに実際は非寛容に走っているので、そのずれに圧殺されそうになる。それがイライラという危険信号になって現れる。本音はそんなしょうもないことでイライラしたくないからだ。イライラするっていうことは自分の思い通りに事が運んでないってことで、それは目的を忘れてただ走っているからだ。毒を食う目的を忘れて毒を食い、「これ毒じゃねえか!なんでわざわざ毒食って苦しまなきゃいけねーんだよ!消毒消毒!」みたいになってしまって、ようやく気が付いた。誤解のないように言うと、先ほど述べた通り、まだ毒を食ったほうがいいのかどうかについての判断はついていない。ただ、前は少なくとも、あえてやっていた「毒を食う」行為を、なんでやってたかを忘れてしまってたし、あまりにも近年毒を食わなさ過ぎていた。気づいた。

おもんなさすぎる話をする人に、「おもんなさすぎますね」といえる無知さもなくなり、正面突破できる胆力もまだ備わってなくて、結構今ピンチかもしれないが、おもんなさすぎる人にそれを眉をぴくりともさせずに伝えられる人生を私は歩んで生きたいと心底思っている。なんか自分として譲れないことが事象としてデカすぎて、些細なこと(他人から見ると些細じゃないんだろうけど)に執着できない。自分としてはとるに足らないと思っていて、でも、それを他人に見られた時には、お前が軽んじていることに全力を注いでいる人もいるのだからばかにするな、かもしくは目の前のことに全力を注げない真剣みのない軽い奴、信用できない、か、どちらかの反応をされてばかり来ていて、不幸にも(勿論私にとって、だが)大事にしている信念があるのか?と思われる。つまり目の前に見えないことを想像すること、目の前で起きていることを疑ってかかる人、が、あまりにも少ないように感じられる。これが最近の違和感の正体で、それを自分の中で正当化するには、「俺は毒を食っているんだ」と思うしかないという手詰まり感が、ある。

これはもうなんというか、切腹したい気分だ。

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