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『読者に憐れみを』を読んで

僕の周りでは何かと素直が話題である。

素直とは、自分の心に従うということである。決して、「他人の言うことに素直になる」なんてことはしてはいけない。大事なのは自分の気持ち、そして、自分で決断することにある。

「人生の選択において正解なんてない」なんていうけれど、言うは易しで、じゃあ実際それを実践できている人はどれほどいるだろう。何かしらの「正解」を念頭に置いて客観的判断をしている気になっているかもしれない。その客観視において、他人の判断を参考にすることはあれ、「他人の言うことに素直になる」ことをまさに自分の”客観的態度”だと決め込むことは危険だと思う。

例えば、現代思想の哲学者においては、みんなが一斉に同じ方向を向くことに対してそれこそ”反射的”な危機感があり、そこに対して敏感に反応してしまうことが多い。かくいう僕もそうであり、きっと現代思想を研究している人は、もともとそういう態度で、その態度を言語化、明文化している人の事なのだろう。

ところでこの場面における哲学者の”素直な態度”とは、思うに、この上の段落で僕が述べていることを、そのまま表明することだろう。それを素直にならずに「どうだろう、そう判断するには時期尚早じゃないだろうか」とだけ言った場合、勿論これは日常の会話においては全く当てはまらないことであるけれど、別の哲学を持った人間から反感を買うことになる。そういうところを最近よく見ているような気がする。

そういうものを見るにつけ、「すごい人なんてこの世には存在しないのだ」という事実に気が付く。でもすぐに忘れる。誰もが誰かに嫉妬している。7つの大罪は消えない。例外なくすべての人間が持つ感情であることから、この感情たちが罪深いものだとするならば人は皆生まれながらに償いようのない罪人であり、まさにこれは精神分析的な解釈である。嫉妬で人を断罪することがいかにバカバカしいかわかる。痛感する。抜け駆けは許さないという感情も、別に日本人固有のものでないと気づく。そして忘れる。このような忘れてしまいがちな当たり前なことは、定期的に思い出す必要があると思う。と同時に大事なのはその先の議論である。


僕が最近素直に注目しているのは別に最近上記のようなシーンを目の当たりにすることから生まれた問題意識では全くない。もっと言うと最近注目しだしたわけではない。素直に生きることは、当人にとってはほぼ間違いなく生きやすくなる考え方の一つであり、それがうまくいっていればいるほど、周りは「お気楽でいいな」なんていわれのない疑いを携えた言葉でこちらを呪ってくる。蝕まれるのはしばしば内側から、つまり当人の罪の意識がそうさせているのであり、素直になって、自分が生きやすくなることは罪ではないということは、これまさに「忘れてしまいがちな当たり前なこと」の一つであるので、これまた定期的に”注目”していかなければならない。ただそれだけの話である。

いくら自分に非がないと言い聞かせても、他人から妬まれることに一瞥もくれず素直を貫けるとしたらその人は「強い人」ということになると思う。でもこの「強さ」を身に付けるには精神的修行などではなく、あくまでもその仕組みを知ることと、失敗を繰り返すことの2つが重要なんだろう。失敗を繰り返せる人というのはその時点ですでに強い人なのではないか、と言われればそれまでなので、最も重要なのはそこなのかもしれない。ただそれも結局「我慢」の積み重ねではなく失敗のメリットをいかに認識できるかにかかっていると思うので、前言撤回で、最も重要なのは「知ること」なのだと分かる。知り(学び)、そして実践する。これを繰り返すことでしか人間的向上は望めない。向上心のない人は知らない。好きにしてくれ。

とにかく、文章を綴ることの価値は、やはりレトリックではなく書いている人の考えの出現にある。良い文章を生み出すためには相応に書き手の向上が要求されてしかるべきである。僕は不特定多数の他人を啓発するためにこんなことを書いている訳ではない。けれど、やはり思っていることを自分の脳内にだけとどめておいても、それはそれで傲慢であるといえるだろう。だから文責は負ったうえで、読者に対しては無責任に、こうして書き殴っているし、し続ける意味がある。それは勿論、自分に対してである。他人は関係ない。ただ自分の誇れる自分でいたい。その思いは、僕から卑屈さを追い払ってくれる。だから、書き続ける必要があるんだ。

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