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「モモ」の読了①子どもの目線を獲得するということと、子どもっぽい私のぼやき

ミヒャエル・エンデの「モモ」を読み終わりました。

↓読み始めの頃の記事

もう古典の域に入ってきている名作なので、

結末も悲壮なものではないのは知っていましたが、

結末が気になるから読む手合いの本ではなく、

描かれている過程の文章というか表現を味わうための物語なのだということが

読んでみてわかりました。

モモと一緒に心細くなりましたし、ハラハラしましたし、喜びました。


児童文学に類される本ですが、

子どもが読める本というのは、もちろん大人が読めないわけがないはずで、

それは漢字が読めるとか、熟語や用語が読めるとか、そういう話だけでなく、

「かつて子どもだった人」として、

子どもの目線になって読めないはずがない、

という意味です。

「大人になる」、というのは、社会生活ではとても大事なことで、

40を過ぎた私にとっても常々課題なことなのですが、

「子どもの目線になる」ということも、

もうちょっと社会全体で価値をおいてもいいと感じています。


じゃあ具体的にどうすんのさ、って話ですが、

モモを読んでハワイ旅行を当てようキャンペーンをやってもいいし(安直)、

道端でしゃがんでみてもいいですし、

公園で秘密基地を妄想してもいいかもしれません。


道端でしゃがめば、住宅街でもスピードを落とさない車が身体をすれすれに通っていきますし、

公園に行けば、コストを抑えて草が生えないようにした地面に、

ケガを誘発しにくいプラスチック遊具が、

不審者がかくれられないようなひたすら見通しのいいだけの安全な空間に

ぽんとおいてあるだけです。秘密基地の想像も一部の才能ある人しかできない気がします。

それでも友達がいればまだ遊べますが、だいたい人影はまばらで、いつも誰もいなければ、誰もきません。

私はドライバーだし、小さな子どもをもつ親なので

いったいどうして社会がそんなふうになったのかも理解できます。

善意のひとの行為がほとんどなのも理解できます。

(住宅街では徐行します)

でも子どもの頃の、道をひとりでほっつき歩いていた私もまだ心にすんでいて

「つまんねえな」

とつぶやくのです。

多分私が小さい頃だって、親たちの小さいころの日常に比べれば

遊びも貧弱で、つまらないと思うのですが、

それ以上に今、子ども目線でみる町の中が「つまらない」と感じてしまいます。

それだけ物質的な「安全」には守られるようになりましたが、

人間的には親も子も孤立していく一方で、

集団として生きていく人間的には「危険」水域です。

つまり、バランスがよくないんです。

モノだけでは、人間って、充実しないんです。

その時間と気持ちをわかちあう誰かがいなければ。

モモにもそんな風に書いてありました。

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便利や安全や安心のためには

「仕方ない」「仕方ない」「仕方ない」「仕方ない」って

いったい何がそんなに仕方ないのさ。

仕方ないのはわかるけど、なんでもかんでも仕方ないですませていいのかい。

仕方ないって、本当に便利な言葉だなこりゃ。

まあ、自分をまるめこむのに、私もよく使っておりますが。

そのために自分の大事な身体を壊した経緯もありますので、

最近はそれって本当に仕方ないですませていいことなのか、

自分に問うことにしています。


モモを先に子どもに読んでもらっていて、よかったです。

「お母さんも読むから」といって渡したので、

今までになく誠実な読み方ができた気がします。









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