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ケン・ローチ監督の最新映画『家族を想うとき Sorry We Missed You』を観て考えたこと

ケン・ローチ監督の最新作である映画『家族を想うとき』の試写会に招待してもらったので観てきました。

12月13日(金)に劇場公開されましたので、少し、観たうえで考えたことを書こうと思います。

できるだけネタバレはしないつもりですが、実際には難しいので映画未鑑賞の方はご注意ください。

望月優大さんが現代ビジネスに書いていた下記の記事で、「自由な働き方」や「ギグエコノミー」などという一見新しくて格好いい言葉の裏側で進む「バックアップの不在」の問題を指摘していました。

「不自由な自営業者」たちが追い込まれる貧困の泥沼…これは日本の未来か

とても良い記事、というか文章なので、ぜひご一読ください。
多くのことを彼が書いてくれているので、僕は「労働の在り方」とか「社会の在り方」という話はせずに、本当に単純に考えたことを書きたいと思います。

「生活保護は受けているのか?」

この映画はまず、主人公であるリッキーが運送会社のマネージャーと、契約についての話をしている場面から始まります。

マネージャーがこれまでの職歴やいきさつをリッキーに尋ねるなかでこう質問します。

「生活保護は受けているのか?」

リッキーはこう答えます。

「プライドがあるから」

映画自体は、このあとリッキーが運送会社のドライバーとして、いわゆる「雇用契約」ではなく自営業者としての「契約」を結び、家族のためにと思い身を粉にして働くなかでボロボロになり、次第に家族の関係にもヒビが入っていき……といったように進んでいきます。

そして、終盤のシーンでも、身体も家族関係もボロボロになりつつも、「生活保護」という選択肢は提示されることなく「バックアップの不在」のなか、リッキーは仕事に向かいます。

「生活保護はある」はずなのに……

ここで重要なのは、リッキーには本当に「バックアップがない」状態であったのか、ということです。生活保護はあります。でも、実際にはリッキーの言葉を借りるなら「プライドがある」ために使えない。

これは、果たしてイギリスだけの話ではないでしょう。日本でも同じように思う人、生活保護の申請を選択しない人は一定数います。

イギリスでも日本でも「権利」として、生活保護制度などのバックアップは存在しています。しかし、実際にはそれが社会的に「使えるものである」と認識されていない。
利用することに心理的な抵抗があったり、実際に申請する際の手続き的なハードルや煩雑さがあったり。

果たしてそういう社会であっていいのでしょうか。

「生活保護が使えない」ことによってボロボロになっても働き続けている

もし、「権利」として当然のように生活保護が利用できたら、リッキーはボロボロにならずにすんだかもしれません。生活保護を利用しないことによって守られる「プライド」とは一体、何でしょうか。
そして、そのプライドは一体、誰の得になっているのでしょうか。リッキーは誰のためにボロボロになったのでしょうか。誰のために働き続けたのでしょうか。家族のため? 会社のため? それとも社会のため?

ふつうに「生活保護が使える」社会のほうが健全ではないか

多様な働き方、会社にしばられない生き方、いろいろな言い方、語られ方がありますが、どんな社会でもうまくいかない時やトラブルに見舞われた時など、バックアップや保障がないと、フェアな競争はできないのではないかと思います。

生活保護など、いますでにあるバックアップや保障を、あたりまえのように必要な人が気兼ねなく利用できるようになること、それが社会の前提として機能することが、とても重要なのではないか、と。
そして、多様で不安定な時代だからこそ、せめて保障をちゃんとしようぜ、と。

そんなことを考えさせられる映画でした。

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