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現役司書が語る、読書感想文の苦い思い出

椎葉村図書館「ぶん文Bun」での新米司書としての生活も、早いもので3か月目に突入している。梅雨の6月も終われば、あっという間に真夏の到来だ。2007年以来、16年ぶり3度目の九州の夏を乗り越えられるか、一抹の不安を覚えるが、ここは山の中だからそう心配しなくとも大丈夫だと高をくくっている。

6月というと、そろそろ夏休みを意識した企画立案も増えてきている頃合いだ(いや、偉そうに言っているが、今年が社会人1年目だから、実のところはそれが一般的なのかどうかはわかっていない)。無論、椎葉村図書館(が入る交流拠点施設Katerie)も例外ではない。あれやこれやと企画中である。

さて、そんな中で図書館×夏休みといえば、避けては通れないのが「読書感想文」。実際に今夏、読書感想文に絡めた企画を展開するかは未定と言っておくが、遅かれ早かれ、3年の任期中には向き合わなくてはいけないだろう。だから、今のうちに自分の読書感想文の苦い記憶にも向き合っておきたい。

作文は好きだけど、読書感想文は…

読書感想文ほど、世間の耳目を集め、手放しの賞賛といわれのない批判、そして真っ当な批判にさらされる宿題はないのではなかろうか。そして、なかでもいわれのない批判にさらされるケースが目立っている印象がある。

読書感想文に対しての印象は各人さまざまあるだろうが、筆者の場合はあまり前向きなものではなかった。読書感想文を抜きにすれば、本を読むのは好きだったし、作文なんかも好きだった。「先生あのね」作文なんて得意中の得意だった。担任の爆笑をかっさらったこともある。そして、創作も好きだった。今はカリキュラムがどうなっているかわからないが、小学2年生の国語の教科書で、イラストから物語を想像(創造)して書いてみようという課題があったのをよく覚えている。あの時間のなんと楽しかったことか!いつまででもこの時間が続けばよいのにと思っていた。だが、余計なおまけもついて回っていた。どうやら当時、小さい子は絵を描くのが好きだ(そして重要だ)と勘違いする大人が多かったのだろう、絵もつけなさいと言われ、辟易したのをよく覚えている。まあ、絵を描くことの重要性は今となってはわかっているつもりだが。

これだけ見れば、読書感想文をネガティブに捉えるようになる要素は少ないように思われるだろう。自分でもそう思う。一体どこで何がターニングポイントとなったのか。

そもそもだが、転勤族だった筆者は、曖昧な記憶をたどった限り、読書感想文が長期休みの宿題として出されたのは、小学校6年生が初めてだったのだ。自由研究を含めたいくつかの取り組むべき課題ジャンルの一つに読書感想文が入ってはいたが、それを選ぶかどうかは各自の判断であって、強制力のある宿題ではなかったはずなのだ。

その点が、小5、つまり感想文を書く経験をするまでは、良くも悪くも世間で喧伝される読書感想文のイメージとは違うイメージを持たせるに至ったのではないかと考えている。それでも最終的にはネガティブイメージを持つことになるわけだ。
ただ、正直なところ記憶が混ざっている可能性もある。実際には小6より前に読書感想文を書いていたこともあったかもしれない。それは今となっては定かではない。

その代わりといってはあれだが、人権や障がい者についての学習か何かで『今日からは、あなたの盲導犬』を読んだのは覚えている。たまたまつい先日、この本を見かける機会があり、それで思い出したのだ。その読んだ後のアウトプットが感想文だったのか、決められたプリントにまとめるだったのか、あるいはグループごとに発表だったのかは全く思い出せないが、読むのは間違いなく読んだ。
そのほかにも、これまたつい先日ネット上で調べものをしていたら今でもやっているのを発見したが、小3のときに大阪こども「本の帯創作コンクール」に授業中に取り組んだのを思い出した。これは大阪とその名前についているくらいだから、豊中の小学校に通っているころに取り組んだのだ。課題図書が数冊用意されているようなので、指定の本に対して皆で取り組んだのだろう。何の根拠もなく、「大スクープ!」と書いて担任の先生が笑っていたのはなぜかよく覚えている。そして、やはり絵の比重が大きかったことも嫌というほどよく覚えている。

このような調子で、読書感想文の周辺領域には足を踏み入れながらも、真正面から読書感想文を書く機会を得るのには、小6まで待たなければならなかったのである。

生意気にも『車輪の下』を選んだ小6の感想文

小6から北海道の田舎に転校した。それにより、初めての読書感想文が課される機会を得ることになった。正直、書き方なんて知らない。本を読むのは好きだし、文章を書くのも好き。基本的な原稿用紙の使い方なんかもちゃんとわかっていたはずである。だが、読書感想文といわれると途端に歯車が狂ったかのようによくわからなくなってしまった。

それにもかかわらず、いっちょ前にヘルマン・ヘッセの『車輪の下』をセレクトした。今振り返るとませガキだなと思う節もある。なぜ『車輪の下』を選んだのか、直接的な理由はあまりはっきりとは思い出せないが、ヘッセがノーベル文学賞受賞者であることは知っていたし、どこかで見かけた『車輪の下』に惹かれていたのだと思う。加えて、当時の筆者は、こうした本を選んで当然という環境にいたのも確かである。
というのも、筆者は幼稚園年中(たしか)からずっと公文式で国語の学習をしており、当時も中学生レベルの教材を学習していて、今思えばまあまあ難解な文章と日々にらめっこをしていたのである。だからこそ、『車輪の下』というセレクトは、ややかっこつけた感は否めないが、自然といえば自然なことだったのである。

ちなみに、椎葉村図書館で働き始めて、ふと「くもんのすいせん図書」や教材内容が気になって調べたのだが、自分でも驚くようなレベルの文章をたくさん読んでいたのだなと気づかされた。自分の該当学年を越えた教材に取り組んでいたこともあるが、そりゃヒーヒー言っていたのにも十分頷ける。
参考までに教材内容をどうぞ。

だが、これがまた生意気なのだが、いざ読み進めてみると「結構共感して、わかった」のだった。大阪から北海道の田舎に引っ越してきて、中学受験をするクラスメイトがクラスの半数にも迫ろうかという環境からまったくのゼロという環境に引っ越してきて、別に中学受験をするわけでもなかった筆者が、実力以上に「賢い」と周りから言われまくるというこの変化と、主人公の葛藤や行動とが思いがけずリンクして、非常に感情移入して読めたのだった。都会の受験競争と、田舎ののんびりした中にある真の学びみたいなものは、このころから無意識的に、しかし敏感に感じ取っていたのかもしれない。
したがって、選書は間違っていなかったのだと思う。読むべき時、出会うべき時に筆者は『車輪の下』に出会えたのだ。それは幸運だった。また、近く再読したい1冊である。

だが、その感想文を書く技術は残念ながら持ち合わせていなかった。もしかすると、感想文という枠組みを外して、自らの境遇と重ね合わせればかなりの傑作が生まれたのかもしれない。だが、そんな発想はなかった。申し訳程度に添付されていた「読書感想文の書き方」に則って、おとなしく書いて提出した。その後、それがどう評価されたのかなんて知る由もない。

そうして、初めての読書感想文は瞬く間に過ぎ去っていった。

運命を変えた『老人と海』の感想文

小学校を卒業した。
そのまま同じ地域にある、公立中学校に入学。1学年でたったの2クラス、わずか65名程度の規模だった。近隣のもう一校の小学校と筆者の母校の2校出身者が9分9厘を占める学校だった。だから、数か月もたてばもうほとんど全員の顔と名前が一致したものである。

小6から野球をはじめ、中学校でも迷いはしたが、野球部に所属することにした。レベルが高かったというわけではないが、そこは野球部。やはり、連日練習があり、毎日グラウンドで白球を追いかけていた。

もちろん、夏休みだって暇ではない。
中学校では、読書感想文に関しては、書きたい人が書くスタイルだったはずだ。忙しいのだから、わざわざ読書感想文を選ぶのはやめておけばよかったのだが、当時、筆者は国語の先生を心底尊敬していた。授業の仕方はもちろんのこと、ユーモアもあり、何と言っても188センチの長身にすらりとした体形。その見た目こそが、スマートさをより一層引き立てていたように思う。相も変わらず、背の順で一番後ろが指定席だった筆者としては、憧れの存在だったわけだ。

先生も、筆者を認めてくれて「可愛がって」くれた。得意だった国語に磨きがかかったのは言うまでもない。勝手に師弟関係のような感じでいた。
(別にここからこの文章が、世間を騒がせているジャニーズの性被害事件のような様相を呈することもなければ、甘酸っぱいBLの様相を呈することもないので、ご安心を。)

そうした状況もあり、筆者は迷わず読書感想文を選択した。学年で数えるほどしかいなかったはずだ。1年前の『車輪の下』でなぜか自信をつけた私は、ヘミングウェイの『老人と海』を選んだ。これまたノーベル文学賞を受賞している。そのころ、ノーベル賞に陶酔でもしていたのだろうか。それは定かではないが、老漁夫と巨大カジキのバトルと聞いて、これは絶対に面白いと確信していた。というのも、筆者は父の仕事上、北海道の海産物には目がないのだ。幼いころ、父が台所で立派なシャケを捌くのを見るのが好きだった。だからこそ、海とか魚とか聞くと、必要以上にワクワクが止まらないのである。

果たして、その期待に満ちた予感は当たった。難解な面もあったし、『車輪の下』ほど自分ごととして読み進めることはできなかったが、老人とカジキの勝負に描かれる老人の生き様と、サメに襲われ喪失感が漂う儚さ。この展開はやはり間違いなく傑作であった。

ただ、やはりこの年もまた、それを表現できるだけの文章技量を持ち合わせていなかった。前年の申し訳程度の「読書感想文の書き方」を引っ張り出して、悩みながらも書いていった記憶がある。今思えば、名文に振り回され、読書感想文を書くための準備をしながらの読書はできていなったように思う。そこですでに勝負は決していたのだろう。だが、やはり「感想文」と銘打たれると極度にちぐはぐになるのであった。書き方を知らないというのはとても厄介だった。だからと言って、血眼になって書き方を調べたわけでもなかった。

何とか書き上げたものの、納得はしていなかった。しかし、書き直すだけの時間も気力も残っておらず、そのまま新学期になって提出した。
しばらくしてから、国語の先生に呼び出された。

書いたものに対する直接的な評価はされなかったと記憶しているが、普段の筆者の実力から考えると、やや物足りない感じをその表情に湛えているようだった。まあ、それは自覚していたのだから織り込み済みではあった。

問題はそこからだった

先生が何やら紙の束を取り出して、口を開く。
「俺も久しぶりに『老人と海』読んでみたんだけどさ。K(筆者)のをもとにしつつ、書いてみたんだわ」
そう言って、手渡された原稿用紙にはびっしりと黒い文字がプリントされていた。自分のとはまるで変わり果てた『老人と海』の感想文だった。

「中学に入って今年が初めてだから、書き方はこれから覚えていけばいい。Kにこれ読んでもらって、Kさえよければこれで提出するか、これをもとに書き直すかしてもらえるとって感じだけど…どうする?」
「…え?これで提出するって、そんなのいいんですか?」
「ああ、まあここだけの話、審査する側もあまり変なの出されると困るっていうのはあって。結構手直しは普通にするものと思ってもらっていい。これで書き方を覚えていけばいい。もちろん、無理にと言うことはない…ただKは野球部だからなかなか忙しいよな?」
「はい、そうですね…書き直しは無理ですね。いったん読んでからどうするか決めさせてもらっていいですか?」
「もちろん」

というようなやり取りをして、受け取った原稿用紙を家で読んだ。上記のセリフは、一言一句そうだったわけではないし、事実でない部分もあるかもしれない。でも、大まかな趣旨としてはこのような感じだった。自分で書いておいてなんだが、必要以上に先生が悪人になっている気がする(苦笑)

さて、家でもらった原稿用紙をすべて読み終えたとき、漏れたのは大きなため息だった。もはや、筆者の感想文の欠片はみじんもなく、これは「先生の」感想文だった。

悩ましかった。
書き直すという選択は時間的に現実的ではなかった。となると、先生のこの原稿をもとに自分が手を入れなおして、自分のものとして出すか、そっくりそのままこれを出すか、一切出すのをやめるか。その3択だった。

まずは手を入れようとしてみた。
だが、無理だった。
あまりに完成しているのだ。手の入れようがなかった。「解説」を読んでいる錯覚に陥った。まかり間違って手を入れようものなら、それは場違いで何かを壊してしまうかのように感じられた。あえなく断念した。

となると、そのまま出すか、一切出すのをやめるかだった。非常に迷った。先生はああ言っていたものの、やはり、これは手直しのレベルを超越しており、このまま出すのには激しい罪悪感を伴った。一方で、ここまで懇切丁寧に手を入れてくれた先生には感謝もしていたし、その思いを無碍にはできないという意識も働いた。

結果として、そのまま「先生の」感想文を出した。

だが、最悪の結末が待っていた。

なんと、その「先生の」感想文が北海道立図書館長賞だかなんだか、正式名称は覚えていないが、結構すごい賞を獲ってしまったのである。

最悪だ。
おかげで、クラスメイトからスゲーと囃し立てられるわ、立派な盾を全校生徒の前で校長先生から受け取るわ、表彰されるわ、例の先生に呼び出され写真を撮られるわと、ピエロもいいところだった。

先生は、筆者の気持ちを慮り、申し訳なさそうな感じもしていた。
自分としても先生を責める気はなかった。ただ、これをきっかけとして二度と読書感想文は書くまいと心に誓ったのだから、先生の行動としては、NGだったに違いない。一人の国語好きな少年に、読書感想文への負のイメージを深く刻み込んでしまったのだから。

今振り返って思うこと

今もし同じ境遇に立たされたならば、提出自体をしなかったと思う。そのうえで、先生に時間をもらって、読書感想文の書き方をみっちりと鍛えてもらう道を選択しただろう。しただろうというより、そうしたい。

先生の名誉のために言っておくが、本当にいい先生だった。筆者のみならず、他の生徒からも信頼の厚い先生であった。筆者が転校する際には、授業時間を割いて、当時ロザン宇治原さんに憧れていた自分のために、「Qさま!!」を模したクイズ大会を開いてくれた。本当に感謝している。
ただ、自分で言うのもおこがましく、それに恥ずかしいが、先生が筆者を寵愛してくれていた感はあったと思うのだ。それゆえに、起きたこととも言えなくはない。寵愛を受けていた立場としては、その恩恵に与ったおかげで国語がより好きになり、得意になった面もあるから、それ自体が悪かったとは思わない。
※「うぬぼれるな」とのお声をいただきそうなので書いておくが、もちろんそれは重々わきまえた上で書いている。さらに、田舎だったため、札幌の上位高校が狙える生徒ということで(実際、札幌の高校への進学希望は伝えていた)、過剰な期待感というのは他の教科の先生からも感じていたことなので、国語でもそうした空気感が背景にあったことは申し添えておく)

だが、先生の読書感想文に対するアプローチは間違っていたと言わざるを得ないだろう。本来ならば、もう少し段階を踏んだ指導をしてもらえるとよかったのだと思う。いきなり、先生の本気が顔をのぞかせる読書感想文を目の前にして、それを目指すというのはちょっと酷だった。その実、先生が見込むほどの実力など筆者が持ち合わせていなかったために、ずれが生じたともいえるのだが。

他方で、先生の発言にも気になるものがあった。
「審査する側もあまり変なの出されると困るっていうのはあって。結構手直しは普通にするものと思ってもらっていい。」
この部分だ。もちろん、繰り返しになるが、一言一句この通りに発言したわけではない。

青少年読書感想文全国コンクール公式サイトには、審査の過程が図式とともに説明がされている。

校内審査を経て、市区町村・地区審査会へと進む。さらには都道府県審査会があり、ここまでを総称して地方審査としている。
その後、「都道府県審査会において各部ごとに優秀作品を選び、各部課題読書1編、自由読書1編を中央審査会に送付します。」とのことである。あくまで段階的審査の例となっているが、概ねこの構図なのだろう。

となると、気になるのは、校内審査と市区町村・地区審査会の関係性とその審査員の実態だ。この記事においては、そこの実態に切り込むのは体力が持たないので控えるが、もし過去にこの点に着目した取材記事などがあるようであればぜひ知りたいところである。思うに、推測の域を出ないが、校内審査は国語科の先生の意見が大きく反映され、校長や教頭なども一応見ているかと思う。ただ、内容チェックなどは国語科教諭任せだろう。もちろん学校規模によっても違うだろうし、全校生徒で応募するとなればまた仕組みは変わるかもしれない。さらに、市区町村・地区審査会もメインは学校の国語科教諭なのではと思っているが、どうなのだろうか。このあたりが、先の発言と関係している気がするのである。

結局、各学校の国語科教諭(や担任教諭)の熱量の高低や裁量に左右される形で、コンクールに提出されていくのだと思う。そこに至る過程はブラックボックス化している。好きで応募している人だけのコンクールならまだいい。だが、学校単位での応募、まして長期休みの宿題になっている場合も多いわけだ。そして、それぞれに対し、どれだけのフィードバックを生徒・児童にしているのかは学校や先生によってバラバラである。そこは明瞭にして、意味のあるものにしてほしい。図工や美術・書道の作品は、当たり前のように人目にさらされるのだから(苦手な人にはなかなか堪えるけれど)、読書感想文だって、クラスメイトで共有できるようにしてほしい(しているところもあるかもしれない)。全国コンクールで「読めて」「書ける」子たちを称賛するのもいいが、「読めなかったり」「書けなかったり」する子たちへの視線をより大事にすべきだと思う。むしろ、そのためのコンクールであり、読書感想文の宿題であってほしい。もちろん、筆者があまりに実情に疎いのは承知の上である。

加えて、忘れてはならないのが、先生の忙しさであろう。筆者の先生も、やろうと思えば個別に指導してくれたに違いない。だが、それだとどうしても拘束時間が長くなるし、先生の負担も増える。本来行うべき、何なら読書感想文コンクールに応募する/しない関係なく、その授業内容(感想文から書評などに昇華させる手だってある)は実施されてしかるべきだろう。だが、それが現状見られないのは、カリキュラムの編成上の問題もあるが、その時間を取れない忙しさの問題が大きいように思う。

筆者も学生時代、東京都内の学習塾でアルバイトをしていた経験上なんとなくわかるが、文章の添削ほど労力を使うものはないのではなかろうか。個々人の力量に応じて、添削しすぎてもいけないし、しなさすぎも良くない。そのバランスを見て、適切に手を加えるのだ。これはかなりの時間がかかり、労力を使う。

この負担を軽減しつつ、一人一人が読書感想文自体は好きにならないにしても、「読む」「書く」「まとめる」「伝える」といった文章作成や説明(プレゼン)に欠かせない力を身につけるための機会となってほしいと願うばかりだ。

図書館員や図書館はどう立ち回る?

さあ、いろいろ述べた。後半はいろんな問題点を少々ごちゃまぜにしてしまった感があるが、ここで簡単に振り返ってまとめてみよう。

①作文は好きだったけど、読書感想文は好きになれなかった筆者
②小6で初めて読書感想文を執筆…『車輪の下』
③中1で『老人と海』を題材にするも、「先生の」感想文で賞を獲得してしまう事態に
④先生-筆者の関係性のエスカレート
  ④-1 断り切れなかった筆者
  ④-2 先生のアプローチの選択ミス
⑤コンクール審査の不透明性
  ⑤-1 校内審査の仕組み、審査基準
  ⑤-2 市区町村・地区審査会の審査員
  ⑤-3 上記の2点の関係性
⑥教員の余裕のなさ
⑦読書感想文の位置づけ(の再定義)

ざっとこんなところであろうか。

筆者は先述の通り、読書感想文とはしばらく縁を切っていた。
しかし、今、曲がりなりにも司書職にある。読書感想文を課される子たちが身近にいる状態である。

いわば、かつての先生と同じことをしでかす可能性もあれば、司書としてより望ましい方向に導く可能性もある。大げさに言えば、岐路に立っているわけだ。

さて、子どものころはそこまで図書館にお世話にならずに来てしまった筆者だが、図書館としては読書感想文活動に対し何ができて、何をすべきなのだろうか。本が読まれないだの、読書離れだの言われる昨今(ずっと言っているけど)において、強制的に本を読んでくれる機会があるというのは、図書館・書店業界からすれば万々歳なのかもしれないが、そう手放しで喜ぶのはお門違いだ。やらされ読書人口が増えてどうする。一つのプロセスとしては強制的な瞬間があってもいいだろうが、あくまでプロセスだ。そしてそれは一瞬にとどめたい。そこをゴールにしてはいけない。もっと先を見据えるべきだ。

先とは何か。
一人一人が個々人の能力を伸ばすことだろう。なんか、成長しろ!みたいなことを声高に謳うつもりはなく、新しい発見がもたらされたり、いつぞや抱いていた疑問がはれたり、ちょっとしたことでいいと思うのだ。そのレベルをも含んだ能力を伸ばすということ。もちろん、読書や図書館が有する資源を使ってできうる範囲でのことである(ちなみに、「能力を伸ばす」というのは広くティーンの子どもを念頭に置いての表現である)。

その答えが、「読書感想文」の書き方についての本や参考資料の紹介、利用者・相談者にマッチした対象本の紹介にとどまっていていいのだろうか。そうは思わない。もっと踏み込んだ取り組みをしていいのではないだろうか。これは、読書感想文に限った話ではないが、本や情報をよく知る図書館員こそ、それを生かした姿勢や実践を身をもって見せるべきだと思うのだ。そして、もっと、読むこと・書くことにフォーカスした取り組みをしてもいいのではないだろうか。読めなくて苦労する人、書けないで苦労する人、それらひっくるめて表現の仕方全般に苦労する人が多いと思われるからだ。

これはまた、別の機会に書くが、読めて書けるというのは絶対に避けては通れない必須能力であり、さらには、それを伸ばすことが今の社会では有利に働くことが多いのではと思うのだ。動画が台頭する以前も、台頭してきて以後も今のところは文字ベース、文書ベースで世の中は動いている。だから、絶対的に重要だと言える。そこを意識したい。もちろん、今後そのルールが大きく転換する可能性もあるわけで、そこには留意したい。ただし、考える力をはぐくむためにも必須だろう。

もちろん、本の紹介も丁寧にやれば相当質の高いサービスになっているだろう。そこで生まれる質の差は各図書館におけるサービスのクオリティの差として認識しておく。

だが、ひとまず読書感想文なら図書館に任せろ!くらいの気概が欲しい。学校の先生も、図書館にお願いしたい、お願いしておけば安心だとなるような活動がしたい。子どもからすれば、とりあえず親に相談するより前に図書館に相談しよう!が出てくるような状況にしたい。もっと言えば、既存の読書感想文にとって代わるようなよりよい存在を生み出したい。その先に読む・書くにフォーカスした取り組みも見えてくると思うのだ。

残念ながら、筆者は読書感想文を通しては、読む・書く力を身につけることはできなかった。だが、せっかく今あるこの活動を生かして、より広く読む・書く、あるいはそれ以上のものに向き合える機会を生み出したい。

そのために、筆者は宮崎県の山の中にある、まだ歩みだしたばかりの椎葉村図書館で模索に模索を重ねたい。偉そうな口を聞いたが、残念ながら、今あるような読書感想文向けサービスも満足に提供できないヨチヨチ歩きの新米司書である。本当、情けない。だが、地域おこし協力隊ということで、自由度高く活動できる立場を生かし、図書館にまつわる問題をよりよい方向に持っていきたいと思う。

全国の図書館員の諸先輩方、教育関係者の諸先輩方、読書感想文を愛し、憎むすべての皆様。このクソ生意気な新米司書にどうぞ善きアイディアを。

(完)

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