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小説【ブレインフォグの明日】了

「静江さん、お昼ご飯いかがでしたか?」
「ごちそうさま、ありがとう」
「今日は、静江さんのお好きな物ばかりでしたね」
 静江さんは、小さな白い頭を何回も下げる。

「ロビーに行かれますか? 午後から手品ショーがあるんですって」
 そうねと、静江さんはゆっくり立ち上がって歩き出す。美那はロビーまで付き添った。
 もうひとり、食事を終えた貞市さんを和室に案内する。貞市さんは新聞を読んだりお昼寝したりと、いつも静かに時間を過ごしているおじいちゃんだ。施設で新聞に目を通すのは貞市さんだけだ。

 午後の空いた時間に、デイサービスのお年寄りたちの連絡ノートに、健康状態、食事、入浴やレクリエーションなど一日の様子を記入する。書いたらお年寄りたちのカバンに戻す。利用者の家族との連絡ノートのやり取りは、まるで幼稚園児を相手にしている保母さんだ。

 介護施設の仕事を初めて二か月。コロナウイルスに感染したことも、何ら問題にされることなく雇い入れてもらえた。今は見習いで仕事はデイサービスの補助だけ。確かに下の世話などキツイところもあるし、先輩介護士に叱られることもあるけれど。

「滝田さん。来週の土曜日ですが、お時間ありますか?」
 帰り際、事務長に呼び止められた。
「あのですね、隣のプレハブの集会室、今は使用してないんですがね」

「はい?」
「その集会室でね、うちの理事長夫人が、お仲間と子ども食堂を毎週土曜日に開いているんですよ」

「子ども食堂?」
「ほら最近のニーュスで、子どもの貧困とかってよく話題になってるじゃないですか。困っている家庭の子どもに、食事を提供するっていうあれですよ」

「ああ、なんとなく知ってます。あの、私に何か?」

「いや、夫人から頼まれましてね。誰か若い人にスタッフとして関わってほしいって。ただ、こっちの施設もギリギリの人数でやってるし、ここは滝田さんにしばらくの間、ちょっと応援お願いできないかと思いましてね。あ、夫人からは個人的に寸志が出るそうです。お時間あったらぜひお願いしたいんですよ」

 事務長の手を合わせんばかりのお願いに、美那は、ここへ面接に来たときに事務室にひょっこり現れた理事長夫人を思い起こしていた。彼女は保育園の園長先生といった風情で、まあ、あの人なら別にいいかなと思う。土曜日は暇だし寸志も出るというし、ここで断って印象が悪くなるのも避けたい。何しろ会社の負担で研修も受けさせてもらっている。無下には断れない。「分かりました。何をすればいいですか?」

 午前九時集合。プレハブ棟には集会室と、簡単な厨房が付いていた。
 メンバーは、夫人の典子さんとそのお友達の愛さん、弥生さん、それに美那の四人。まずは大まかな手順とそれぞれの役割を確認する。その後すぐ三十人分の昼食を作る。メニューは、カレーライス、唐揚、豚汁、サラダ、デザートはゼリー。美那以外の三人は、素晴らしく手際が良い。美那は、とりあえず言われたとおりに肉や野菜を刻んだ。

「美那ちゃん。それが終わったらテーブルの準備お願い。除菌スプレーでまずは拭いてね。テーブルクロスはコロナもあるしやめましょう。あ、あと入口にこの箱置いて、箱の脇にこの紙を貼ってちょうだい」

 はいと返事をして紙を見ると、「子ども十円・大人二百円」と書かれている。箱は小銭が投入できるように、上に丸い穴が開けられている。

「あの、無料じゃないんですか?」

「あのね、タダだと却って人は遠慮しちゃうものなのよ。謂われのない施しはプライドが傷付くでしょ? 美那ちゃんだったらどう?」

「ああ、本当にそのとおりです」
 マスクをしていても分かる典子さんの笑みに、美那は素直に頷く。

料理が出来上がった十一時頃に、一組目の母子連れがやってきた。集会室の入口から、中を恐る恐る覗き込んでいる。

「いらっしゃいませ。どうぞ! あ、入口のアルコールで手を消毒してくださいね。美那ちゃん、お熱測ってあげてね」
 愛さんが大きな声で、あちこち一度に呼びかける。

「はい、お熱大丈夫です。こちらへどうぞ」
 美那は母子をテーブルに案内した。奥から弥生さんがお料理を運んでくる。小さな女の子は、初めはどうしようというように母親の顔を見上げていたが、お母さんがいただきますと手を合わせると、自分も小さな手を合わせてからカレーライスを食べ始めた。

おいしいね、うんおいしいね。

 その様子に、美那の嗅覚も微かに蘇ってカレーの匂いがしたような気がした。
 ぽつんぽつんとお客さんが来る。親子連れの他、きょうだいや友達連れ、中にはおばあちゃんと一緒に来る子もいる。皆、おいしそうにご飯を食べて笑っている。

「美那ちゃん、お疲れさま。助かったわ! はいこれ、寸志」
「え、でも……」
「これはいいの。ちゃんと受け取ってちょうだい。今日はアルバイトで特別にお願いしたんだから。ただし寸志だから二千円」

 子ども十円・大人二百円。箱の中に小銭を入れていったお客さんの数を考えても足りるかどうかだ。

「あのね、運営は篤志家の方から寄付を頂戴してやりくりしてるのよ。フードバンクや、農家から直接購入して食材も安く手に入れてるし、いろいろと工夫しながらやっているの。あとは人ね」
 典子さんはそう言って、美那の手に寸志を握らせた。

「それでね、もし美那ちゃんさえ良かったら、今度もお手伝いしてほしいの。夜勤勤務が始まるまでの間でもいいから。やっぱり人手が足りないのよ。それに、チラシを配る作業もあるし」
「チラシ? 子ども食堂のお知らせですか」
「そうそう。この近くの、子どもさんのいるお家にポスティングするのよ」

 典子さんは、チラシを持って来て見せてくれた。A4のコピー用紙に、男の子と女の子、その足元には犬と猫が描かれた可愛いイラストに、日時と場所、それから子ども十円・大人二百円と印刷されている。

 帰り道、美那は詩空のアパートに立ち寄った。
 詩空があの時、建物の上の方を指していたから部屋はたぶん二階だ。美那はスチールの階段を上がり、端から注意深く表札を確認する。

 あっ、たぶんここだ。一番奥、西側の角部屋からテレビの音が聞こえる。ドア脇の窓が少し開いていて、流しで誰かが茶碗を洗っている気配がする。奥から、男の子と女の子が話しているのが聞こえてきた。
 美那は折りたたんだチラシを錆びたポストに入れ、アパートの階段を、音をたてないように降りて行った。

 詩空、お兄ちゃんと一緒においでね。待ってるよ。

 そして、アパート前の児童公園のブランコに座り、暮れ始めた空を仰ぎ見上げ、マスクを外すと思い切り深呼吸するのだった。                              

                              了

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