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「広尾ふる川」−土屋氏も蒲焼きの匂いに腹を空かせてたかな−『名所江戸百景』

なんやかんや一昨日の体調不良ちゃんがまだ私の体の中に居たかったらしく、居ることを許してやったので昨日も寝ました。

なんか昨日分も今日分も投稿したいので早々と始めたいと思います!
今日は美術展二つ梯子したんだけどね!!!!!

紹介をすっ飛ばす今日も広重。今回は『名所江戸百景』の「広尾ふる川」です。

◼️ファーストインプレッション

この辺りが広尾だというのは題名からわかりますね。
そこから勝手に推測すると、広尾は恵比寿にちょい近なので渋谷とほぼ同じ区域だとすれば、この川は渋谷川かその派生でしょう。
以前、三田用水が出てきた「目黒新富士」渋谷川が出てきました。
三田用水は目黒川と渋谷川の間を通る細めの川で芝にまで至るものでした。
絵のような狭め幅の川が渋谷川にあたるとは思えないので、渋谷川の分水だったりするのでしょうか。

橋を渡った左岸に検閲みたいなチェックポイントめいたものが置かれています。川を境に管轄が違ったりしたのかもしれないですね。それともただの休憩所かな?

そのまた奥にはなんだか賑やかな食事処があります。2階席も人がちらほら見えるので繁盛していそうですね。

景色の遠景になるほど丘が小高くなっていきますが、川はそっちの方から流れてくるのでしょうか。人があまり手を加えていなさそうな未踏感が否めないですね。畑にするには面が無い。段にするにも高低差がない土地。
今ではどんな景色になっているのでしょうか。

◼️古川

この絵に描かれる小川は古川という川で、上流に渋谷川、下流に新堀川と呼ばれる流れになっているそう。


結構重要な内容をキッズたちが呟いてくれています。

この川の水源は新宿御苑の湧水であるということ。
そして古川は渋谷区の渋谷川(現存はしていない)を流れ、南麻布4丁目の天現寺から”古川”と称されるようになるとのことです。

で、この絵に描かれる古川に架かる橋がしっかり名前のついたもので、”四の橋”という橋。

最初は広尾というから恵比寿あたりとして渋谷川かな?と連想していましたが、がっつり港区。
一番下の橋の由来のところには”土屋相模守下屋敷前に架けられた、、”とありますね。
どんな立地だったのか当時の地図で見てみましょう。

相変わらず国土地理院の古地図は使いこなせないのでこちらのアプリから。

真ん中を流れるのが渋谷川/新堀川/古川です。その中で橋が架かっていますが、そこに四の橋と記載があります。それに加えて下に○に里のマークがあって相模殿橋とも書いてあります。
この地図上には相模領が見当たりませんね。”土屋”相模守下屋敷の前であったということから相模殿橋と名がついたとも言われているのですが、左上に”土屋采女正寅直”とありますのでそこにゆかりがあったのかもしれません。

あったっぽい。

ここを参考にすると、土屋氏という土浦を拠点とした藩主がいて、彼ら一族の中に匂わせている人物がそれっぽい名前をしています。

土屋寅直生没年:1820-1895
父:常陸土浦藩八代藩主 土屋彦直
幼名:多仁丸
通称:采女
1837 従五位下
1837 采女正
1838-1868 常陸土浦藩九代藩主
1843-1850 奏者番
1848 寺社奉行見習
1848-1850 寺社奉行
1850-1858 大坂城代1
864-1868 奏者番
1864-1868 寺社奉行従四位下正四位従三位正三位
正室:竹子(父:筑後久留米藩九代藩主 有馬頼徳
多仁丸
質直
養直
1865-1895 民子(夫:子爵 青山忠誠
1852-1892 (養子)挙直

これがまさに書かれている土屋采女正寅直についての略歴。采女正であったことや本名も書かれている通りです。
しかし、相模は一体いつからの話なのでしょう。橋がかかった時のことなので寅直よりもかなり前のことですよね。

相模に関連する略歴を持つ人をあげてみます。

土屋政直
生没年:1641-1722
父:常陸土浦藩初代藩主 土屋数直
通称:左門
1658 従五位下
1658 能登守
1665 相模守

土屋寿直
生没年:1761-1777
父:常陸土浦藩三代藩主 土屋篤直
幼名:辰之助
通称:左京
1776-1777 常陸土浦藩四代藩主
1776 従五位下
1776 相模守

土屋彦直
生没年:1798-1847
父:常陸水戸藩六代藩主 徳川治保
義父:常陸土浦藩七代藩主 土屋寛直
幼名:拾三郎
従五位下
相模守

寅直以前だとこの三人。
四の橋が施工された時から遡ればいいのですが、描かれているような橋が建てられたのはいつか出てこず。”今の”ような形の四の橋が施工された1948年という情報なら出てきました。

だから地図では采女正寅直とあった場所は、きっと相模守を担当していた上の三人の誰かの時代に橋が造られ、相模殿橋と別称されたのでしょう。


本当はこのまま橋を渡った奥にある食事処である蒲焼きの「尾張屋」について実際にあったものなのか検証しようとしました。しかし『江戸名所図会』をみても麻布や広尾を題した場所は描かれているものの、肝心の渋谷川および古川が描かれている様子はなく、断念しました。

しかし一通り目を通すとこれまで見てきた土地の特徴をしっかりと捉えた名所ばかりが出てきて、その時に見ておけばよかったなと実感しております。

明日からできたらいいな!
今回は古川とそこに架かる四の橋について見てきました!
今日はここまで!

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