見出し画像

「せき口上水端はせを庵椿やま」−菓子職人のお陰で水が飲めている−『名所江戸百景』

昨日の悩みを一晩の睡眠で半解消し、今日は院生の先輩にお話を聞くことができました。
院生でも就職をしようと一般企業を受けている先輩ばかりだと聞いて、少しホッとしました。
道は狭くなるけれど、どこにも当たらないわけではないのだと思えて朝の食欲のなさは軽減されて、お昼に唐揚げカレーを食べました。

美味しい唐揚げカレーを食べた今日も広重。今回は『名所江戸百景』「せき口上水端はせを庵椿やま」です。

◼️ファーストインプレッション

題名の椿山というのはきっと、右にある小高い丘のことでしょう。
そこには綺麗に色付いた桜の木が描かれています。
椿だとこんな咲き方しませんよね。椿山なのに、、。

食事処があるのか、襖の開いたところから広々が見えます。家にしては由緒がありそうすぎる。

この川は昨日見た神田川でしょうか。岸がそれっぽく草の生い茂る感は昨日と似ていますね。
奥の広々とした土地は田畑でしょうか。土が見えますので人々が耕したでもありそう。
でも季節は春の様子ですからもっと緑で生い茂っていてもいい気がしますね。

川の湾曲が奥行きの加減をより増しているような印象を受けますが、曲がったところが広過ぎて、手前になるにつれて細くなりすぎです。
こっち側が下だとすれば、深さがなければ溢れてしまいますよね。
不思議な川です。

◼️神田上水

この真ん中を流れる川は、川ではなく上水であるそう。神田上水であるらしい。
この神田上水と、題名にある”はせを”=松尾芭蕉には深い縁があるそうです。

https://www.histrip.jp/20181206tokyo-chiyodaku-8/#i-2

神田上水とは、江戸時代に設けられた飲み水を供給する上水道です。江戸の六上水(神田上水・玉川上水・本所上水(亀有上水)・青山上水・三田上水(三田用水)・千川上水)のひとつであり、古くは玉川上水とともに、二大上水とされました。
家康は当時飲み水を確保することが困難であった関東へ入ると共に、もともと菓子職人であった大久保藤五郎へ、上水道の整備を命じました。藤五郎は、小石川の流れを利用し、駿河方面へ流すことに成功します。
これが神田上水の原型となっています。

以前触れた玉川上水と並ぶ二大上水であったのですね。
この上水の整備を命じられたのが菓子職人というのが意外。
なんで菓子職人である彼がいきなり水道整備を任されたのでしょうか。

こちらの記事を参考にすると、

まず、大久保藤五郎という人物は家康の小姓を務めていた人物でした。
彼が二十歳になる前に起こった一向一揆で主君である家康を守ろうとしたときに敵の銃弾を脚に受けて歩行ができなくなってしまったそう。

それから三河に引きこもってしまった藤五郎は、菓子作りを嗜むようになりました。
そうして作っていた菓子を、ある時戦に行く武士たちに持たせたところ武士たちだけでなく家康も大喜びしたそう。食糧と水分不足に喘ぐ武士たちに陣中見舞いとして菓子を持たせたのです。

それをきっかけに藤五郎は家康に菓子を度々献上することとなります。

その中には今の三河餅も含まれているそう。

そんな彼が菓子作りから上水作りに転身したワケが、家康の転居です。
家康は三河から江戸に身を移しますが、問題点として江戸の水がいいものである必要もあったのです。
菓子作りに長けている人ならいい水を判断する舌を持っているのではと考えたのか、説は不明確であるそう。
そんな藤五郎は水道整備の担当に任命されてから、江戸に赴き実地調査を行いました。

たった3ヶ月の調査の結果、赤坂の溜池神田明神山岸の細流の二つを候補に挙げ、江戸全体の水源としました。

そこから伸びて井の頭池、善福寺池武蔵野の水源として、流れを利用して江戸城からの水を引きました。
その水の流れが初めは小石川上水と呼ばれ、後に神田上水と呼ばれます。

こうしてできたのが神田上水。
大久保藤五郎バージョン。


松尾芭蕉が絡むのはここから。
小石川上水として完成した水路を1677年から伊賀上野の藤堂家が改修をすることとなりました。
その時に土木技師として工事に携わったのが松尾芭蕉

https://style.nikkei.com/article/DGXBZO35683130Y1A011C1000000/

確かな証拠は並んでいませんが、河川開削をすることもあったというから驚き。
かの有名な「奥の細道」も、伊達藩の運河視察が狙いだったため東北にかけての旅路を選んだという説まであるそう。
これについては文献を以て詳しく調べてみる価値ありですね。

そんな芭蕉がこの工事に従事していました。彼は伊賀上野出身だったからのようです。

当時でも相当有名な歌人であった芭蕉は、歌人”なのに”土木工事に尽力したとして五〇年忌には弟子たちにより、関口芭蕉庵というものが河川の近くに建てられました。

それが、絵の高台にある建物。こちらを芭蕉庵と言います。題名にある通りですね。
この小高い丘を「椿山」と言います。こちらも題名の通り。椿は咲いていませんがね。

この椿山、現在ではかの有名ホテル、椿山荘のこと。

赤ピンが関口芭蕉庵。東側に椿山荘がありますね。

さすが、河川開削にあたっただけあり東京の名湧水57選に選ばれているみたい。東京に57も優れた湧水があることが以外ではあります。笑

第二次世界大戦で焼失してしまったみたいですが、戦後に再建されたみたい。
一度近くに行った時に覗いてみたいですね!

今日は神田上水の成り立ちと芭蕉との関係を見ていきました。

『名所江戸百景』の本編?もあと残り一つ!
ちょっと大事にしたい記事ではあります、、。!

今日はここまで!
#歌川広重 #名所江戸百景 #せき口上水端はせを庵椿やま #浮世絵 #神田上牛 #大久保藤五郎 #松尾芭蕉 #ホテル椿山荘 #椿山荘 #芭蕉庵 #江戸時代 #江戸絵画 #日本画 #日本絵画 #アート #美術 #芸術

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?