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ハイデガーとは誰なのか?

ハイデガーは、ものごとを逆さにしてみせる。反転してみせる。手のひらを返す。こともなげにそうする。あるいは、彼は簡単に逆さにされる。順序を変えられる。その立場をころころと変えられる。例えば、彼の主著である『存在と時間』は、彼の思索の順序とは逆に構成されている。そして、そののちの講義『現象学の根本諸問題』では、同じテーマを今度はまたその逆さま、要するに思索の順序に従って、構成され直されている。彼の有名な講義集『技術への問い』は、彼による三つの講義が、時間軸を逆さにされて収録され、出版された。昨年出版された日本語版の新訳は、また逆さま、すなわち時間軸に従って収録され直されている※1。彼は生涯にわたって、さらにはその死後も、ナチスであったり、反ナチスであったり、何度もその立場を反転し、反転させられている。彼自身は、もはや「変わる」ことなど出来ないのに。
あたかも彼においては、順序や立場などは、可変的でさして重要でないもの、どうでも良いものとして扱われているようだ。※2
彼の「存在」の意味は、どうにでも変わり得る。彼の「時間」は、いくらでも操作し得る。しかし、待て。彼の主著のタイトルは、『存在と時間』である。彼にとって、「存在」と「時間」が、どうにでもし得るものであるのなら、それをどう論じようというのだろう。
彼は死んでいる。したがって、すべては過去である。彼が生きているときにも、彼には彼の過去があった。要するに、彼は生前も現在も、「どうにでもできるもの」としての「存在」と「時間」を所有していた。彼は過去を論じるタイプの学者ではなかった(多くの学者は、過去を研究対象にしている)。もちろん、その逆でもなかった。予測という形で未来を研究対象とするタイプの学者は、未来を過去の反復として論じる。例えば、経済学者や社会学者などがそうだ。マルクス主義も例外ではない。占い師たちですらそうだ。彼らの研究対象は反復である。わたしたちが予測し得る未来とは、反復のそれであって、それは本当の意味での未来ではない(カトリーヌ・マラブーは、二つの未来をフランス語でfuturとavenirを使って区別した。残念ながら、日本語にはこれにあたる適当な言葉がない※3)。
過去と未来の分裂を進行させていくものとしての現在は空虚であるとハイデガーは言う。過去、現在、未来に解体された、あるいは解体され得る時間は通俗的な時間であり、本来の時間ではないと。本来の時間とは、解体も還元もできないものであると、彼は言う。時間とはー。

彼の立場がどうでも良いわけはない、と人は言うだろう。彼の立場には責任が求められているのだと。しかし、では、立場とは何だろうか。彼の立場は、彼の立場として独立したものであることはあり得ない。彼の立場は、立場というものを成立させている一つの平面の一部である。立場とは、その平面上で相互に支え合い、また排他的なものとして切り取り線を入れられることによってでなければ、決して見えない。立場とは、それを話題にするすべての人が参画するものでなければ、その実在性を誰も信じないだろう。立場とは、互いを反射し合う、いわば、鏡像の遊戯である。立場を持つものとは、鏡に映ったものを所有するものである。その鏡は、決して己の姿を映さない。鏡は、それを持つ人の手の中にあって、常に外側に向けられている。決して己を映さないものとしてのその鏡に映ったものに、己にとって何の意味があるというのだろうか。それは存在と無縁である。少なくとも、己の存在とは無縁である。鏡には、己でないものが、己でないからこそ映るのだ。責任とは、その鏡像が担うものである。己でないものが担うものである。彼は逃げているのだろうか。もしそうだとして、逃げている彼はどの彼だろうか。鏡の中の彼だろうか。それとも別のー。

それでは、問いをより具体的にしてみよう。彼は誰なのかと。ハイデガーとは、誰なのか?と。
ハイデガーとは、彼以外の全ての人、全ての事物から区別されることによって切り出されたものである。ハイデガーとは、ハイデガー以外の全てのものによって、ハイデガーとされたものである。彼はハイデガーを所有していたのだろうか。していたとするならば、それはどのようなハイデガーだったのか。あるいは、彼はどの程度、どのようなハイデガーを所有することを強制されていたのか。彼はどの程度、どのようなハイデガーを所有することを許されていたのだろうか。強制と共生は、日本語では同音異義である。これは、彼好みの議論だろう。ハイデガーは、どのような力によってハイデガーであることを固定されようとしていたのか。また、しているのか。彼はハイデガーとしての自己と齟齬をきたさないように慎重だった。自分と自分がぴったりとくっつくように。彼はその作業に難儀しながらも、どうにかバランスを保てるように按配していた。※4
やがて、彼の黒いノート(これは彼の死後まで公開はされず、彼によって彼の全集の最後に収録されるよう指示が出されていた。またしても彼の時間軸は可変的なものとして扱われる)が、大声で読み上げられる。議論される。彼はもういない。しかし、鏡の中の彼=ハイデガーは、未だにそこに映っているのだ。鏡の中の「時間」は、彼が生きた時間と同じものではない。
ハイデガーがどのようなハイデガーを所有するのかということに関するあれこれの議論は、政治に属するものである。それは、彼にとって「有る」とは呼べぬ領域のものだった。
彼は、存在が存在するその場所を「およそ有るといえるあらゆるものが属している当の領域」※5、そして、人間的な存在を「死すべき者たち」と呼ぶ。「死すべき者たち」とは、その「当の領域」における人間たちの呼び名なのだ。わたしたちは、そう呼ばれることによってのみ、「当の領域」において「有る」ということが出来る。「死すべき者たち」は、わたしたちの存在の様式なのである。「死すべき者たち」は死んでいるのではない。しかし、そう呼ばれなければ、生きているということも出来ない。「死すべき者たち」は、「死すべき者」としてのみ生きることが出来る。「死すべき者たち」の生き方とは、「予期せざること」を受容することによってなされると彼は言う。その「予期せざること」一つ一つが死であり、それは最後の一つが訪れるまで続いていく。※6
ここで、「存在」と「時間」が合流する。すなわち、「死すべき者たち」としてのわたしたちの存在は、死を最期とする「予期せざること」としての時間を生きる者たちなのだ、ということ。それは、わたしたちが時間の中で生きるのではなくて、わたしたちが生きることそのものが時間なのだ、ということである。
そのためにわたしたちは、自由でなければならない。囚われてはいけない。「死すべき者」とは、一つのもの(物/Ding)でありながら、決して限定された個体に閉じ込められたもの(者/物/Ding/thing)ではない。
「境界とは、そこで何かが終わる地点ではなく」、「そこから何かがその本質を発揮し始める起点」なのだ、と彼は言う。自由(free)を表すドイツ語のFreienは、囲い(fence)を意味するeinfriedenと、同じ語源Freiedeを持つ。Friedeとは、平和(peace)の意である。囲われ、そこに安寧を見出している存在は、決して囚われていない。それは、その本質において実在しており、自由なのである。それが、「およそ有るといえるあらゆるものが属している当の領域」における「死すべき者たち」の生きる場所を開くことなのだと彼は言う。
それは、存在がその本質をあるがままに発揮できるようにして在る在り方である。それは、近代的な、主体的な自己ではない。野生状態の奔放さでもない。

ハイデガーは逆さになり、回転し、元に戻るかと思えば、また逆さになる。ひっくり返され、引っ張り回され、置かれたと思えば転がっている。もはや、どちらが上で、どちらが下なのか、彼が誰で、どのような責任を負うものなのか、分からなくなっている。しかし、それで良いのだ。それが彼であり、それは彼ではない。彼のことを、彼の奥さんに聞いてみよう。愛人に聞いてみよう。ハンナ・アーレントに聞いてみよう。
ハイデガーの存在と時間ー。

※1『技術とは何だろうか』森一郎編訳
※2もちろん逆説もある。彼の時間性や立場が可変的なのは、彼にとってそれが重要な事柄だったからだ、とする見方である。しかし、一般的にそれらの事柄は、いずれにせよ不可変的なのだ。
※3彼女によれば、未来の可能性は可塑性に託されている。わたしたちは不安と恐怖から逃れることが出来ない。しかし、可塑性を信じることによって、これを乗り越えていくことはできるかもしれない。可塑性を信じるとは、己を信じることではなく、己の可能性を信じることだ。それは、要するに未来に向けられている。しかし、このことはまたいつか別の機会に。
※4アルチュセールやドゥルーズは、その点において失敗したのか。否、むしろより能く実行したのかもしれない。
※5『建てること、住むこと、考えること』
※6作家のチャールズ・ブコウスキーは、死をを「ひどいジョークの最後の一つ」と呼んだ。『ブコウスキーの酔いどれ紀行』 Shakeapeare Never Did This 1979年

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