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パン屋に行く

パン屋の扉を開ける。
自動車のキーを捻る。
財布を持つ。
カフェラテを受け取ると、レジの店員に「ありがとう」と言って店を出る。
奥では、男性が一人で黙々と作業をしている。
並んでいるパンを眺める。サンドイッチを一つと、何か甘いものを一つが良い。
会計は1,100円。
行きつけの店に向かって車を走らせる。BGMは、Dr.Feelgoodの『She Does It Right』。
パン屋に置いてあるキッシュやタルトには、背徳を感じさせる何かがある。
外は寒い。車に乗る前にマフラーを巻き直す。
レジでパンと一緒にカフェラテを注文する。
陳列されたパンを前にトングを持つ客たちには、失敗や錯誤に対するほんのりとした緊張がある。
帰り道で音源を、Joe MacPheeの『Nation Time』に変える。
焼きたてのパンの匂いがする。


恐らく、哲学が科学よりも優れた学問だということは、「哲学を用いていかにして人を殺すことが出来るのか」について説明して見せたときに、実証されるだろう。科学は(そして医学は)、現にそうして自らの有用性を主張し、権威を固めてきた。要するに、自らの軍事的有用性を説明することによって。

ドゥルーズは、ヒュームの経験主義に希望を見出した。アプリオリに規定されたとされる人間の倫理的在り方の有限性を打破するために。しかし、わたしは音楽の好みについて語るときに、この考え方にどことなく虚しさを感じる。「何をどれくらい耳にしたかによって、好みの差異が生じているに過ぎないのか」と。
かといって、好悪の趣味を共時的な価値の問題に還元する構造主義的な解釈にも 、絶望的な匂いしかしない。
さしあたって、わたしには、音楽をリズムとして、ただリズムだけのものとして聴くしかない。要するに、心臓や脈拍に類似したものとして。
コミュニケーションのツールとしての音楽など、糞食らえだ。
音楽が一つの家のように、空間を広げ、わたしを包むように思われたことがかつてあった。
自分が誰なのかなどと、あまり考えすぎてはいけない。

ただ記述することだけが、営みに形を与える。
しかし、記述は表面的なものだ。記述によって描写された奥行きは、トリックアートのようなものだ。
実際には、そこにはただ喪失が、不在だけが穴を開けている。

#哲学 #ドクターフィールグッド #ジョーマカフィー #ドゥルーズ #ヒューム #パン屋

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