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そこに"劇場"はあるのか? 「ロリータファッション ≠ コスプレ」問題を考える

ちょうどロリータファッションに関するトークイベントの準備をしていた2023年9月、「『中華民族の感情を損なう』服装を禁止、中国が法改正案」というBBCのニュース記事の中で、「『コスプレ』の格好で北京の通りを歩く少女たち」というキャプションが目に飛び込んできました。
そのキャプションが添えられているのは、明らかに「ロリータファッション」に身を包んだ女の子たちの写真……。
でもそれは、人によっては「コスプレ」に見えてしまうのでしょう。
しかも、元の英文記事では「コスプレ」のニュアンスがないのに、日本語に翻訳されるときに「コスプレ」と書かれてしまったことに、日本におけるロリータファッションへの解像度がまだまだ低いことを思い知らされたのでした。
怒っているロリータファッション好きも多いトピックでしたが、いまだに記事は訂正されていないようです。

ロリータファッションに興味があれば必ず一度は、いや何度となくぶつかることになるテーマ、それがこの、「ロリータファッションとコスプレの違い問題」。
なんとなくファンタジックで非日常的な格好、という感じでひとくくりにされるからなのか、「ロリータってコスプレみたいなものでしょ?」と無邪気に言う人はけっこう多いものです。
でもそれは、ロリータファッション好きにとってはスルーしがたい発言かもしれません。
ときどき論争のようになっているのも目にしますが、お互い理解しあえていないのが現実だなあと感じます。
それは、そもそもロリータファッションのどんな要素がコスプレと混同されているのか、またどこがコスプレと決定的に違うのか、の説明が、ひとことでは難しいからだと思うのです。

*以下、「ロリータ」とは原則ロリータファッションのこと、またはロリータ服を着る人のことを指して使います。


メイドと呼ばないで

まず歴史を遡ってみていくと、ロリータとコスプレが混同されることには、2000年代半ばに萌えアニメやオタク文化、メイド喫茶がロリータとほぼ同時期に盛り上がったという背景がありそうです。
2008年ごろのロリータの女の子のサイトを見ていたら、「エプロンをつけるとメイドって言われるから嫌だ」と書かれているのを見つけました。
「メイド」や「萌え」がサブカルチャーとして広がり、低い解像度でロリータもそのカテゴリとして認識されることが増えた頃から、ロリータはエプロンをつけるコーディネートを避けたこともあったのではと推測できます。
その頃は私自身も10代で、ロリータや青文字系雑誌に憧れ情報を片っ端から集めはじめた時期ですが、エプロンをつけたコーディネートを見た記憶はほとんどなかった気がします。
2000年代の雑誌『KERA』や『ゴシック&ロリータ バイブル』を見てみても、ロリータブランドとして代表的なBABY, THE STARS SHINE BRIGHTのショーなどでエプロンをつけているコーディネートはあったものの、一般のストリートスナップではエプロンを取り入れたコーディネートはほぼ見られません。

現代日本では秋葉原的な文化圏から市民権を得たといえる、「ご主人様」に仕える者としてのメイドと、誰にも仕えない、むしろどちらかというと仕えさせる側!?のロリータとを、混同しないでほしいと切実に思っているロリータ当事者は多いようです。
たとえば松浦桃『セカイと私とロリータファッション』(2007年、青弓社)の中では、「お嬢さまであるところの『ロリータ』が、使用人である『メイド』に見間違えられるなんて迷惑な話である」と断言されてさえいます。
ただ私は、たしかに今の日本ではメイドというとアニメ・オタク的文脈から切り離せないけれども、もっと大きな歴史の中でみれば、ヨーロッパ貴族に仕えるメイド、マリー・アントワネットの侍女、大正浪漫の女給、はたまたアメリカンダイナーガールなどから美的・ファッション的要素を抽出し、ロリータに取り入れる楽しみ方というのも、それはそれとしてあるのではないかな、とは思っています。
実際、BABYやAngelic Prettyなどのロリータブランドでは、そういったデザインを落とし込んだアイテムも出されてきました。
ここで大事なのが、素材やディテールへのこだわりでしょう。
どんなレースをどこにどのくらい使うのか、どんな布や色を採用するのか。
撮影用やイベント用の衣装ではなく、あくまでも日常の中で着るリアルクローズだからこそ、ロリータは素材にこだわるのです。
価格帯が安くない理由のひとつも、この点にあるといえます。


ロリータとコスプレ デザインに共通する「記号」

ではデザインをみてみると、ロリータとコスプレは、具体的にどこが似ているのか。
メイド喫茶やコンカフェ(コンセプトカフェ)の制服のような服と、ロリータファッションとを見比べてみると、「記号」としての共通点はたしかに多いので、「ロリータってコスプレみたい」と言いたくなる気持ちも理解はできる気がします。
たとえば、スカートの裾や袖、ブラウスなどに過剰なまでにあしらわれたフリルやレースやリボンだったり、レースのカチューシャやヘッドドレス、パニエを入れてふくらませたスカートなどは、メイド喫茶やコンカフェの制服にもロリータファッションにも見出せる、「少女的」「かわいい」といえる要素でしょう。

メイド喫茶「めいどりーみん」の制服の一例(イメージ)


ただ、わかりやすく違う部分を挙げるなら、メイド喫茶やコンカフェの衣装は肌を出すことが多い。
これはメイド・コンカフェに衣装には「男性目線を意識している」と言ってしまえばわかりやすいですが、肌を露出しているからといってデザイン性を「男性/女性の目線」や「モテ/非モテ」で区別・分類することは、ファッションを語るにあたって思考停止を招くのではないかな……と私は常々考えています。
本当に、男性に魅力を感じてほしいから肌を見せるのでしょうか。派手だったり甘すぎるファッションは女性同士にしか好まれないんでしょうか。それともその逆?……結局、どんなファッションを好むかは人それぞれだし、性別も二元論では語れないと思うのです。
一旦ここでは、メイド喫茶やコンカフェにおけるこういった露出なども、日常で着るリアルクローズではなく、「衣装」としての性質だということを指摘しておきたいと思います。

コスプレ=「限られた時空間だけ」のもの

では、目に見えるデザイン性ではなく、精神性の面から考えてみるとどうでしょうか。
「コスプレ」とひとくちに言っても、アニメやゲームなどの二次創作としてのものから、ざっくりとした「仮装」まで、いろいろな種類があります。
それをまとめて「キャラクターを演じること」や「変身願望」に結びつけて定義してしまうと、ロリータとの違いが曖昧になってしまうのではないかと私は思うのです。
それを言うならロリータにも、お人形やお姫様、童話の主人公になりたいとか、別人とまではいかなくてももっと好きな自分になりたいとか、そういう思いで着る精神性は大なり小なりあるはずだから。
それにロリータやコスプレでなくとも、そもそも私たちはみんな、一般社会のなかで何らかの役割を演じるために装うことがあるのではないでしょうか。
学校の制服や仕事用の服だって、身を包んだときに意識が変わったりモードが切り替わったりする感覚をくれる。
この点だけでは、ロリータとコスプレ、またその他のファッションの精神性の違いを一般化して語るのはむずかしいと思うのです。

私は、コスプレのコスプレたる所以を、「限られた時空間だけで演じて楽しむ服装」という特徴に見出したいと思っています。
コスプレはコミックマーケットなどのイベントや撮影会など、限定された場所の中、限定された時間のあいだだけ演じて楽しむ服装で、その外部にまで延長するものではない。
その限られた時空間を、私は「劇場」と呼びたいと思います。
メイド喫茶やコンカフェの衣装も同じで、そこで纏うのは、閉じられた「劇場」の中での役割を果たすための衣装だといえる。
そして、お客さんやイベント参加者など周りの人も、ひとたびその劇場に足を踏み入れれば、その劇場の一員となる可能性がある。

「限られた(短い)時間・空間の中だけ」というのが、ここで強調しておきたい重要な点です。

今着ている服は、コスプレですか?

たとえばコスプレの文化圏でのルールのようなものとして、自宅など生活圏からコスプレ衣装で出掛けることは基本的にNGとされていますが、それは「劇場」の外部の人を「劇場」へと巻き込んでしまう危険性があるからと説明することもできるでしょう。
先ほど挙げた、メイド喫茶やコンカフェ制服の特徴である肌の露出の多さなども、劇場の中で求められる役割を演じるための「衣装」としての要素だと考えれば、合点がいく気がします。
デザインという面でロリータブランドの服と比べたときに際立つ、コスプレ衣装の素材についても同様です。
光沢のある布やケミカルレースなどは、限られた時空間の中で、ライトを浴びたり、写真を撮られたり、演技をしたりすることに適応した素材なのでしょう。
それに対してロリータ服の素材は、あくまでも生活に即したものだと私は思うのです。間近で見て、触れたときにわかる素材の質感、耐久性、着心地の良さ。
ブランドやアイテムによって個性はあるので、その中から自分の好みや気分、ライフスタイルなどに合わせてお気に入りを選ぶのが、ロリータファッションの楽しみでもあると思います。

体験をともなってこの考えが浮かんだのは、この夏、西武園ゆうえんちに行ったとき。
昭和30年代のレトロをテーマにしたその空間は、屋外も屋内もお店も、ゆうえんち全体がまさに「劇場」でした。
商店街を模した敷地内ですれ違う、昭和の街の住人に扮したキャストたちは、私たちを否応なしに劇場へと巻き込んでいきます。
この場所は、一種のコンカフェみたいなものかもしれないと思いました。
でも、キャストはその服装のまま、ゆうえんちという劇場の門の外に出ることはない。
だからこそ、それは「コスプレ」といえるのです。

限られた時空間で演技するためだけの服装、という切り口から考えるなら、誰かにとってはもしかしたら、仕事用のスーツだって完全にコスプレなのかもしれない。家の中でエプロンをつけることがコスプレだという人すらいるかもしれない。

あなたが今着ている服も、もしかしたらコスプレと呼べるかもしれません。

ロリータは時空間を超えて遊ぶ

そう、ロリータ服はというと、コスプレのように「限られた時空間だけで演じて楽しむ」ために着るものではない。
もちろん、会う相手や行く場所によっては着られないことがあったり、お茶会やイベントなどのためだけに着る人も多いと思いますが、デザインが独特だとしても、あくまでも私服の延長。
映画『下妻物語』の中で、主人公のロリータ・桃子が、田んぼの広がる地元でも常にロリータファッションで闊歩し、家で作業しているときも軽めのロリータのワンピースに身を包んでいるのがわかりやすい例でしょう。
桃子にとっては、ちょっとだけ出てくるシーンの、高校の制服のほうが「コスプレ」なんだろうな……。

私は個人的には、ロリータファッションの中でもカーディガンを重ねるコーディネートが好きです。
スカラップやリボン、刺繍、レースなどの甘いディテールがありながら、防寒という生活感・機能性もほのかに感じさせるカーディガンは、非現実的にみえるロリータファッションと日常生活とを繋いでくれる、象徴的なアイテムのように思えるからです。

ロリータ服を着るとき、私たちは限定された時空間の中にいるというよりもむしろ逆で、自分の心の中に描く物語を拡張しているような気がするのです。
頭につけたフリルのぶんだけ、スカートの広がりのぶんだけ。
その広がった部分で触れ合える人とは、世界を共有できる。
お茶をしたり、街を歩いたり、芸術を鑑賞したり、好きなものを愛で合ったりする。
でも、それを共有できない人が絡んできたり、無断で写真を撮ってきたりすると、「此処は劇場じゃありません!」となる。
ロリータに劇場は要らない。
変身はしても、私たちは空想世界を自由自在に、無限に広げて行き来できる。
ときに孤独に、ときに誰かと、時空間を超えて遊んでいる。
「そろそろおもちゃを片付けて寝る支度をしなさい」と言われても、切り替えなんてできないというのが、ロリータのもつ少女性なのではないでしょうか。
ぬいぐるみを抱えたままベッドに入り、物語の続きを夢見る。そんな日常が続いていく。

「ロリータってコスプレみたいなものでしょ?」と言われたら、私はこう答えることにします。
「コスプレは限られた時間と空間の中だけで演じるためのファッションだけど、ロリータは明確にここからここまで、と決まった時間と空間の中で着るものではない」と。

ロリータは、時間にも空間にも縛られず、永遠に遊んでいたいのです。


(文・イラスト:大石蘭)

▲冒頭で触れた記事。




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