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【ジャニーズ問題④】日本における「男色文化の歴史」(3)

故ジャニー喜多川氏の未成年者への性加害報道に端を発し、改めて、それまでタブーとされてきた「男色文化」について書いています🫣
第3弾は、江戸時代以降の「男色」についての話です。


◆庶民に広がった「男色」


僧侶・公家・武士と続いてきた男色文化が、本格的に庶民の間に広まっていったのは、江戸時代に入ってからでした。

実は室町時代あたりから、
庶民の間でも男色が行われていたという記録が残されています。

当時、庶民が楽しんだ「手猿楽」では、美女の「女房猿楽」や美少年の「稚児猿楽」が演じられ、酒席の余興の後で、一夜を共にしたそう。
また、稚児を寵愛する物語があったりと、徐々に一般庶民にも男色文化が広まっていきます。

秀吉が天下統一を成し遂げ、世の中が平和になってくると、更に町民など庶民の間でも、様々な文化が盛んになってきます。

徳川家康が江戸幕府を開いた慶長8年(1603年)、
「出雲の阿国」という女芸人が率いる一座が、京の北野神社で、奇抜な格好で踊る「かぶき踊り」を披露し、大人気となります。
これが歌舞伎の始まりとされます。

ここに遊女達が加わって「遊女歌舞伎」が流行。
しかしながら、風紀が乱れるとして、幕府がこれを禁止します。

これに代わって登場したのが、
女装した少年たちが演じる「若衆わかしゅ歌舞伎」です。
美少年の美しい歌と踊りは大人気となりますが、
役者が男色の対象となり、役者買いなどの売色が横行、遂に刃傷沙汰になるなど、やはり風紀が乱れてこれも禁止となります。

そこで
承応元年(1652年)、成人した男性中心の「野郎やろう歌舞伎」が始まります。
歌舞伎を男性だけが演じる過程で、「女方おんながた」も生まれ、今日の我々が知る、歌舞伎の原型となりました。

しかし、
その後も役者による売色業は廃れることがなく、
女性役をつとめる女形おんながたは、より一層、実際の女性に近い存在となりました。
当時は、女形が男性に抱かれることは、女性らしさを学ぶ、役者修業のひとつと考えられたそうです。

歌舞伎で、役者修行中の少年は「陰間かげま」と呼ばれました。
これは、歌舞伎の表舞台にまだ出ていない、つまり「陰の間」の修行中の役者に由来しています。
そして、彼らには売色を行っていた者も少なくなかったため、「陰間」は男娼を指す隠語となります。

当初は、芝居小屋で男色が行われましたが、
その後、舞台に立たない陰間を置く「陰間茶屋」も登場。
男性版の遊郭ですね。

陰間茶屋には、女装をせずに、男性の姿のままの陰間も数多くいたそう。

この「陰間遊び」が町人の間で流行しました。

その料金は非常に高額で、
お金に余裕のある武家や商人、僧侶の他、御殿女中や商家の後家さんなど、女性客もいたそうです。

今では考えられませんが、当時は、
「色道の極みは男色と女色の二道を知ることだ」と言われ、
同性愛者を中心に、陰間茶屋は大いに繁盛したそうです。

江戸時代の前期、元禄時代の天和2年(1682年)に刊行された
井原西鶴の「好色一代男こうしょくいちだいおとこ」でも、
男色について触れられています。

主人公の浮世之介が、生涯交わった人数は
女性が3,742人😲
そして、少年が725人😬!
とあります。

井原西鶴と「好色一代男」の名前は、確か、歴史か古文の時間に学校で習った記憶がありますが、さすがにその内容までは一切触れられておりません!
(教師は内容を知っていたのかな?)

同時代に活躍した近松門左衛門も、男色を取り上げた作品を遺しています。

また、同時代に活躍した俳人・松尾芭蕉も、その愛弟子である坪井杜国とこく、越智越人えつじんと愛人関係にあったと言われています。
芭蕉は想いの詰まった句を弟子に贈ったとかw

元禄文化を代表する、井原西鶴と近松門左衛門、松尾芭蕉が…💦

つまり、かつて日本では、同性愛が差別されたことはなく、否、差別どころか、日常のごく普通のことだったと言う訳です。

この陰間茶屋は江戸だけではなく、関西や、名古屋など全国に拡がりますが、第9代将軍の徳川家重と第10代家治の時代に老中だった田沼意次の時代に最盛期を迎え、その後、徐々に廃れていきます。
その後、第11代将軍の徳川家斉、第12代家慶の時代に行われた、水野忠邦の「天保の改革」では、厳しい倹約令と共に、風俗の取り締まりが行われ、天保13年(1842年)に陰間茶屋は禁止されます。
しかし、寺社の援護もあり再開。陰間茶屋は、江戸幕府の終焉まで続いていきます。

幕末に活躍した新選組局長・近藤勇の手紙には
「局中でしきりに男色が流行している」と書かれています。
剣豪集団である新選組の剣士がBLだったとは、実に意外な事実です。

西郷せごどん」こと西郷隆盛の男色も有名ですね。
古くから薩摩には「薩摩趣味」と呼ばれる男色の習慣がありました。
薩摩といえば、猛々しいイメージがありますが、
当時の男色は、現在のものとは違っていたのかもしません…。

「度量が狭い」とか「小心者」「ケチ」とかいう意味で
今でもごく普通に使う
「ケツの穴の小さい野郎だぜ!」
という言葉も、元々は男色から来た言葉だったとか違うとか💦

注意深く見ると、昔の作品などで「陰間」という言葉は出てきますね。

iPhoneでも「かげま」は「陰間」と変換されますし
「なんしょく」も「男色」とスムーズに変換されます😳
知らなかった!
皆さんは普通に知っている言葉なのでしょうか?

男色がタブーとなったのは、どうやら明治以降のようです。


◆明治以降の男色


明治維新を迎えた日本では、「文明開花」の名のもとに、様々な西洋式の文化が取り入れられ、制度や習慣が大きく近代化していきます。

もちろん男色文化なんてのは、もっての外。
新政府としては、できれば隠しておきたい風習です🤫。

以前も書いているように
キリスト教の影響を受けた欧米諸国では、同性愛が宗教上の重い罪でした。
国を近代国家にするため、西洋化を急ぐ日本でも、古くから続く男色が、徐々にタブーとなっていきます。

しかし、性の問題は、頭では理解できていても解決が難しい、なかなか複雑なもの。

明治初期には、
女性に溺れるよりは男色の方が良いと言われ、
一部では、『男を愛してこそ男だ!』とされ
学生の間では、女色を好む者は「軟派」、
男色を好む者は「硬派」と呼ばれるなど、
男色文化は色濃く残っていました。

森鴎外の小説「ウィタ・セクスリアス」でも、学生寮での同性愛の話が綴られています。

現代の価値観とは随分と違うようですね😶

王政復古と神道による思想統一をめざした新政府は、当初、幕府の政策を引き続き、キリスト教を禁止しますが、イギリスやフランスなど西欧各国から一斉に抗議が起きます。

欧米では、新聞などで「信教の自由を認めない日本は、野蛮国だ」と強く非難されます。
当時、不平等条約の改正を求めて海外に渡航してい岩倉使節団は、各国で厳しい批判と圧力を受けることになります。

明治6年(1873年)、新政府はキリシタン禁制の高札を撤去。
こうして、キリスト教に対する禁教政策に終止符が打たれ、信仰は黙認。
西洋的な考え方が少しずつ広がっていきます。

また、同年には、男性同士の性行為を罪とする「鶏姦けいかん罪」が制定されました
(明治15年(1882年)まで)。

こうして、
古くから社会的に許容されていた男色文化は、
同性愛を罪悪視するキリスト教の価値観や、
同性愛が異常性愛の精神疾患だとする、
西洋の精神分析学の影響で、
異端視されるようになります。

また、富国強兵を目指し、成人男子全員が徴兵される国民皆兵制度の中で、女性的な男性は、その存在が認められないようになっていきます。

大正時代に入ると、
更に西洋的な考え方が浸透し、それまで日本では普通であった男色や同性愛が、タブー視されるようになります。
このため、男色は、秘密クラブやゲイバーなど
陰で、ひっそりと行われるようになっていったのです。

戦後、同性愛は引き続きタブーとされます。
何となく知っているけれども、公では言ったり、したりしてはならない秘密の存在。

TVやマスコミで、女装したり、オカマやオネエのタレントが増え、何となく同性愛者がいるということは、知られていくようになりますが、
男色文化の歴史について語られることは、ほとんどありませんでした。

こうした歴史背景の末、今年(2023年)に発覚したのが、ジャニー喜多川氏による未成年への性加害問題という訳です。


今回は男色の歴史について解説していきましたが、全く知らない事実が明らかになりました。

同性愛は最近の概念のように思われていましたが
実は男色ははるか昔から根付いていた文化だったのですね。

BBCのモビーン記者は
「日本社会の実に大多数が、未だに見て見ぬふりをしている。」と述べましたが、
殆どの国民ですら知らない歴史の末にある話ですから、なかなか難しい問題ですね。

日本の意外な男色文化の歴史を知ると
「当たり前とは何なのか」を改めて考えるきっかけになりました。

こういう文化、風習、歴史があったという事実を無視して、
『未成年の少年に無理矢理性加害を加えた=悪』
という単純な善悪二元論で報道されていますが、
改めてジャニー喜多川氏の行為について考えてみると、やはり現在においては、決して許される行為ではなく、
被害に遭われた方には真摯に償いをすべきだと思います。

それにしても、自分の権力をバックに
年端もいかぬ少年と性的な関係を築くことで、スターを育成する行為は、
やはり「歪(いびつ)」に思えます。

しっかりと歴史の事実と問題の背景を知り、その上で、偏見を持たずに、自分なりに考えるキッカケになればと思います。

取り敢えず、「男色文化の歴史シリーズ」はこれにて終了。

機会があれば、また色々と書かせていただきます。

今回も長くなり恐縮です。
最後までお読みいただきありがとうございました
m(_ _)m


(2023年10月22日投稿)

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