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【ジャニーズ問題③】日本における「男色文化の歴史」(2)

故ジャニー喜多川氏の未成年者への性加害報道に端を発し、改めて、それまでタブーとされてきた「男色文化」について書いています🫣


◆仏教界における「男色」について


古事記や日本書記でも記されていた男色。
現在の価値観で過去を裁く訳にもいきませんが、
かつては仏教界においても行われていたという記録が残っております(驚)!

仏教の修行は、悟りを開くために、
煩悩や執着、欲望を断つこととされ、
異性の存在は修行の妨げとなると解釈されました。
このため、仏門に入った僧侶達は、女性から遠く離れた寺院で修行を積みます。

古くは僧が女性と性交渉をすることは罪とされ、残念ながら、僧侶の性欲の抜け道として、男色を許す風習が発展していったとされます😞。
現在の仏教界と、かつて寺社勢力と呼ばれた時代の寺院は別物。
僧兵など荒法師がいたなど、現在とは性質が異なっていたようです。

奈良・平安時代、仏教の広まりと同時に、男色も密かに行われていたようですが、
その後、高僧・空海が、唐から密教と共に、流行していた男色の習慣を持ち帰った影響で、僧侶と稚児の間での男色が広まったとされています…😓。

日本の仏教では、月経のある女性はけがれた存在であるとされ、寺院は原則として女人禁制でした。
そのため、僧侶たちは「稚児ちご」と呼ばれる少年に、身の回りの世話をさせます。

稚児には
皇族や上位貴族の子弟が行儀見習いなどで寺に預けられる「上稚児」、
頭の良さを見込まれて世話係として僧侶に従う「中稚児」、
芸道などの才能が見込まれて雇われたり売られてきた「下稚児」
がいました。

剃髪していない元服前の少年修行僧である「稚児」は、垂髪すいはつ、または、稚児髷ちごわげを結い、平安貴族女性と同様の化粧をしたり、極彩色の水干すいかんを着ました。
又、女装することもあり、その場合、少女と見分けがつきにくかったそう。

昔話に出てくる「牛若丸」のイメージが何となく重なりますね。
幼名・牛若丸こと源義経は、11歳の時に鞍馬寺に預けられ、稚児名を遮那王しゃなおうと名乗ったとされます
(現在の牛若丸の話は、室町時代の創作とされています)。

この稚児が、寺院の雑用のみならず、僧侶の夜のお相手も勤めたとされています(上稚児は対象外)。

(;゜д゜)!

どう考えても、戒律違反だと思うのですが
下稚児に対しては「稚児灌頂ちごかんじょう」という稚児を神格化する仏教儀式が行われました。
灌頂を受けた稚児は、観音菩薩の化身となり、慈愛を以って人々を救うとされました。
この儀式を受けた少年僧の肉体は、観音菩薩と一体化するので、性行為を行っても、生身の人間ではなく、信仰の対象である観音菩薩と交わっていることになります。
こうして、僧侶が稚児と交わることは無理矢理、正当化されました
❓❓❓

僧侶達が選り好みするので、やがて下稚児は美少年だらけになった
と言われています。

僧侶によって行われていた男色の習慣は、やがて貴族にも伝わり、平安時代後期になると、男色は高貴な男性のたしなみの一つとして確立していたとも伝えられています。

現在の感覚では全く理解できません。
ジャニー氏の性加害問題について、9月の記者会見で東山紀之新社長は、「鬼畜の所業」「人類史上最も愚かな事件」と厳しい言葉で非難しましたが、まさか日本に、こんなに恐ろしい歴史があったとは…。

ジャニー氏の父親は、高野山真言宗の僧侶であり、大正13年(1924年)~昭和8年(1933年)までロスアンゼルス高野山米国別院の住職だったそう。
ジャニー喜多川こと喜多川ひろむ氏は、父親の滞米中に生まれたため、米国籍を取得しています。
ジャニー氏が「稚児灌頂」という仏教儀式を知っていたかどうかは分かりませんが、もちろん現在では到底許される行為ではありません。

今回の性加害問題をきっかけに、通常では表に出てこない仏教界の歴史を知ってしまいました。

(参照▼)


◆戦国武将の「衆道しゅどう

かつては、勇ましい武士の世界でも男色は行われていました。
武家社会の中にも、貴族や寺院でたしなみとされた男色が広がっていきます。

室町時代の
三代将軍・足利義満は、
南北朝との統一を果たし、盤石な足利政権を確立。
明との貿易で得た巨額な利益を背景に、権勢をふるうのと同時に
世界遺産となった「金閣寺」の建立など、公家文化の伝統美と武家文化の力強さを融合させた、
日本独自の様式美の礎を築きます。

この義満が融合させた、貴族や寺院の文化の中に、男色も含まれていました。

義満も、後に父の観阿弥かんあみと共に猿楽を大成した、少年時代の世阿弥ぜあみを寵愛したと伝えられています。

幼少時の世阿弥は藤若と呼ばれた稚児でした。

この義満が、後の武士特有の作法を伴う、男色文化の礎を築いたとされます。

その後、応仁の乱を経て迎えた戦国時代。
女性のいない戦場で、武将に仕える小姓に手を出すなど、男色が広がります。

この主君と小姓の間の男色は、武家の作法と融合し
衆道しゅどうと呼ばれます。

衆道は、絶対服従の関係で、
肉体だけではなく、
精神的な結びつきを特に重視していました。

殺すか、殺されるか、命がけの戦場ですからね。
それまでの公家の美少年趣味とは異なります。
闘うアドレナリンが大量に溢れ出る、生死を共にする戦場で、
男色は、「絆」と「信頼」を互いに確かめ、深める行為となってなっていきます。
下剋上など、裏切りが当たり前とされる戦国時代において、主と家臣が肉体的に結ばれることで、最強の武闘派集団を作り出していたのかもしれません…。

戦国武将において、衆道は一般的なことであったとされます。

何となく世間一般で知られているイメージとしては
織田信長と前田犬千代(前田利家)、森蘭丸。
徳川家康と井伊直政
といった当たりでしょうか。

武田信玄や上杉景勝、伊達政宗などにも、衆道に関する逸話が残っているそうです。

最近のNHK大河ドラマでは、「おんな城主 直虎」でも「どうする家康」でも家康の小姓であった井伊直政役に、美少年俳優がキャスティングされています。
(もしかしたら…)と思わせる、視聴者をドキドキさせる演出ですね。

一方、あれだけ女性が好きだった豊臣秀吉には、男色の噂はありません。
「男も抱けずに、それでも男か!」と信長にも叱られたのだとか…。
武士階級のたしなみであった男色という風習に、農民出身の秀吉は馴染めなかったのかもしれませんね…。

一般庶民に男色が浸透していくのは、もう少し先。
江戸時代になってからと言われています。


次回はその辺のお話を。

今回も長くなり恐縮です。
m(_ _)m

(つづく)

(2023年10月20日投稿)

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