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SNSで沢山の写真が消費される時代?マジで?

こんばんは。
髭の円形脱毛症が完治した元岡です。(約1年かかりました)

本日は「SNSで沢山の写真が消費される時代」となんだか聞こえはカッコ良いこの言葉について僕なりに考えてみました。


本当に消費されてんの?

ツィッターやインスタグラムで考えるとタイムラインに大量の写真が流れてくるのは事実だと思います。

しかし、タイムラインで流し見された写真消費されたと表現するのはなんか納得いかないなぁ...と思ったわけですよ。

なぜなら、その流し見される事がわかりきっているタイムラインに写真を放っているのは紛れもなく自分自身ではないのか?と

つまり写真を消費しているのは自分自身なのでは?とふと思いました。

まぁこれは、SNSのタイムラインに写真を放ち沢山の人に流し見された事が「消費」にあたる場合。という前提条件が成立するなら!の話です。

いや、そもそも。ネットに写真を晒すって消費どころか永遠に残る恐れがあるわけじゃないですか。デジタルタトゥーなんて言われますけど、正にそうで自分が投稿を消したとしても誰かがスクショ残してて、消えて無くならない。ポートレート写真は人物が写っているので被写体を務めてる方のデジタルタトゥーになり得てしまう物だと思っています。

消費と相反してる。にもかかわらずなんで「消費される」なんて言葉で表されるのでしょう?

仮説①
写真撮ってる人の気持ちなのでは?


写真を撮ってSNSへ投稿する。
写真を撮ってまたSNSへ投稿する。
これがいつからか
SNSへ投稿するために写真を撮るになってしまって、新しい写真を撮らなきゃ...って気持ちに写真撮ってる本人や、被写体さんだったりが陥ってしまっているからなのではないでしょうか?

この場合、気持ち的に古い写真は消費されている。となるのではないか?と

仮説2
消費されていない
ブランディング的なもの?


そもそも「SNSで沢山の写真が消費される時代」ってどこの誰が言い出したんでしょう?
写真とどの様な関わりがある人物または組織が発した言葉なのでしょう?

つまりこれは「写真見るなら本を買えよ」というメッセージの裏返しなのではないでしょうか?

あと考えられるのは、SNS以外の展示や写真集販売の時によく見かける言葉でもあるので「自分はSNSしかやっていないカメラマンとは違うんだ」というブランディング·マウンティングのための言葉に過ぎないのかなぁ?とも思います。

仮説3
なんかカッコ良い


SNSで沢山の写真が消費される時代だからさぁ、俺、プリント、拘りたいんだよねぇ。( ・ิω・ิ)」って言ったらなんか、なんとなくカッコ良く聞こえませんか?
ごめんなさい。間違えました。
なんとなくカッコつけたいんだろうなぁ...
って思いませんか?

つまりこれは言葉自体に深い意味は全くない。ただ言ってみたかっただけ。という仮説。


3つの仮説をたててみました。
僕個人としては別にSNSで写真は消費されていないと考えています。

理由としてはオリジナルデータは手元に残っているし、SNSに投稿したからといってオリジナルデータに何かしらの欠損が生じる事も無いからです。

何をもって消費されたとしているのかが今の僕にはよくわかっておりません。
なので、「いや、そうは言うけどこうこうだから消費されてるくない?」とかご意見お聞かせ下さい。

という、本日はずっと気になっていた
SNSで沢山の写真が消費される時代」という言葉について僕なりの考えをまとめてみたした。

最後まで読んで頂きましてありがとうございます。

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