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正しい指摘も、いじめの始まり?

今回のnoteは 人材育成 に関してです。画像は僕が初めて勤務した職場。本当に仲が良い職場でした。今でも思います最高のチームでした。

もくじ
1. 人はなぜ口を挟むのか
2. 指摘からいじめに発展する理由
3. 仲が良すぎるのも善し悪し

1. 人はなぜ口を挟むのか

前回のnoteでハラスメントに関する記事を紹介しました。その中で「人はなぜ口を挟むのか」の理由については一旦保留にしていましたので、こちらで詳しく紹介していきたいと思います。

「口を挟む」。この言葉を聞いて多くの人はマイナスの印象を持つ事でしょう。言い方を変えれば、「関係ないのに」「横やり」「お節介」「茶々を入れる」「一言多い」「余計なことをいう」などと表現できるでしょうか? つまり黙っていられないんですよね。そう、黙っていられないんです。データは明らかにされていないのではっきりとしたことは申し上げられないですが、日常の印象としては、おとなしいタイプの人より、おしゃべりタイプの人の方が黙っていられず、つい口を挟んでしまうような印象があります(偏見でしたらごめんなさい)。若い人より年配の人の方がその傾向が多いようにも感じます(偏見だったらごめんなさい)。

言う側からしたら、「せっかく教えてあげてるのに」「あなたのためを思って」「組織のために」「患者さんのために」「私の方が知ってるし」「私こそ詳しいし」など、セラピストだとこういう思いがありそうですよね。

まあ、職場では「口を挟む」という行為は逆にそれほど多くはないかもしれません。時々、会話に突然参加してくる人の「ん?なになに?」っていう言葉を聞くたび、滑稽だなあ~って思っていました。しかし様々学びを深めていく度、ある意味その滑稽さが恐怖に変わりました。その怖さを後に紐解きます。一方、この「口挟み」は一般家庭や奥様方同士、嫁姑間では多々ありそうですよね(偏見だったらごめんなさい)。

ではどうしてこのような「口挟み」が起るのでしょうか? 滑稽では済まされない、恐怖に変わるメカニズムを解説します。

中野信子 ヒトは「いじめ」をやめられない 小学館新書 2017

この本によれば、「種を残すために、社会的集団を作り、協力的行動をとってきたヒトにとって、最も脅威となるものは何でしょうか。集団を脅かす 敵 もしくは 敵になりそうな他の集団 でしょうか」と示しています。

つまり、口を挟んでくるという行為は、仲間であることの証であり、集団であることの表れであると考えられます。なぜなら本当に敵対視しているのなら「無視」したり「放置」することは容易に想像できるからです。人類の長い進化の歴史からからも、集団の重要性は外敵から身を守るなど、種の存続として裏付けられています。我々人類は、集団を維持し種を存続するために「向社会性」が自然に身についてきたとこの本は示しています。

そしてこの「向社会性」に反するような、自分の集団に対し、「反社会的勢力」となるような人物を検知しようとする脳のプロセスを、「裏切者検出モジュール」と呼び、この脳機能によって我々は日常何気なく「口挟み」をして、自分の組織に有益かどうかの検出を自動的にしているのではないかと考えられます。

「え?なになに?」と話を割って入ってきたり、「あーそうじゃなくてさあ~」とつい黙っていられず言ってしまうのは、人間として古い歴史から染み込んで来た「DNA」がなす技なのかもしれません。


2. 指摘からいじめに発展する理由

ハラスメントにおいては前回の note で、「相手の気持ちを察しないで、偉そうに口を挟んだり、振舞うから起きるんです」と示しました。中には相手の気持ちを察して声掛けしたつもりでも、「ハラスメントだ!」なんて言われてしまうこともある今の時代です。ハラスメント三昧の管理職も、「ハラ・ハラ」が得意な職員も、ある意味それぞれに備わっている「向社会性」に対する「裏切者検出モジュール」の結果かもしれません。悪い表現かつ極端な言い方をしてしまえば、自分の意にそぐわない部下を抱えた管理者は、管理者にとって都合の良い何かしらの「ハラスメント」を用い、集団に危害を加えそうな部下を排除しようとしているかもしれません。これに対し、部下は部下の立場で、部下集団からしてみれば、こうした管理職や上司は、自分達の同期や仲間からしたら、この集団に危害を加えている上司なので、排除すべきと「ハラ・ハラ」行為が発動すると解釈できます。

繰返しになりますが、私たち人類は長い年数をかけ、種の存続について懸命に努力をしてきました。生きるか死ぬかの正に真剣勝負を繰り広げてきたのです。リーダーの指示に従えないものは、自分たちの集団にはふさわしくないというアラートが集団個々人の脳裏にメッセージ化され、知らぬ間に集団としての「空気感」をもたらすと考えられます。

この本には以下のようにも示されています。
「集団は理性を鈍化する。このことを明らかにしたのが、2014年に、米マセチューセッツ工科大学とカリフォルニア大学バークレー校、それにカーネギーメロン大学などの合同研究チームが行った実験です。この実験によって、人は集団の一員として行動しているとき、良い・悪いを判断する脳、すなわち、道徳心や倫理観に関わる内側前頭前野という領域の反応が落ちることがわかりました」

つまり、集団規範に忠実であれば、その組織の中では何が善か悪かの理性が鈍るということを示しています。新聞やテレビで見かける組織絡みの事件の多くは、これらの研究結果からも頷けることかと思います。

山本七平 「空気」の研究 文芸春秋 2016

この本の中にも集団組織に密接に関係がある、いわゆる「空気感」の話を取り上げ、以下のように示しています。
「空気とは何であろうか。それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ判断基準であり、それに抵抗する者を異端として、抗空気罪で社会に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである」と。

また、現場の空気感のことを「臨在感的感情移入」と称し、以下のようにも示しています。「物質から何かの心理的・宗教的影響をうける、言い換えれば物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けるという状態」と。

そしてさらに、私が「口挟み」ということを取り上げお示ししているように、この著書の中にも、空気の研究に加え「水=通常性の研究」として以下のように示しています。「水という概念はもっと漠然としている。ある一言が・水を差す・と、一瞬にしてその場の・空気・が崩壊するわけだが、その場合の・水・は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって、即座に人々を現実に引き戻すことを意味している」と。

眼には見えない「空気」、そして「口を挟む」=「水を差す」という行為、この行為がさらに「空気」をどのように変化させていくのか、見えないものに対する見えない化学反応に思わず恐怖を感じてしまいます。

中野氏の著書では、集団組織におけるオキシトシンの作用について、分泌がさかんになると、「親近感・信頼感・安心感などが生まれ、心理的・精神的ストレスの緩和になる」と示しています。しかしこの一方、「オキシトシンが仲間意識を高めすぎてしまうと、妬みや排外感情も同時に高めてしまうという、負の側面をもった物質であることも分かっています」と示しています。

このことはある意味非常に恐ろしい事であると考えられます。
「口挟み」行為が滑稽では済まされない、恐怖に変わる瞬間がここにあると理解できるのです。
あなたの周囲に、人懐っこく、周囲と協調的で、仲間や家族を強く愛している人がいたら、実は要注意人物なのかもしれません。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」「可愛さ余って憎さ百倍」。深い愛情、仲間意識の過剰さは、かえって人間関係を壊してしまうことにもつながると中野氏は指摘しています。

はじめは何気なく話に参加したつもり、何気なく意見したつもり、しかしこれが「いじめ」や「ハラスメント」に繋がっていたとしたら… 背筋が凍ります…


3. 仲が良すぎるのも善し悪し

「口を挟む」「水を差す」これらは、先ほど=(イコール)と表現しました。どっちが良い事でしょうか? 「口を挟む」という行為は、上から下へ流れるパワーを感じます。一方、「水を差す」には、立場は対等で表現できると感じます。前者には元々上からな感じなので、言い方に気をつけなければ言われた方は良い気分になれません。見下された感が残ってしまいます。一方、後者は意見する事は誰でも可能。目の前の現実の問題点を的確に指摘する事になるので実はありがたい事。しかしこちらもまた、言い方によっては言われた個人はもとより、その場にいる集団全員を張り詰めた空気で覆ってしまうので、十分注意が必要です。

集団を意識する中で必要不可欠なことは、集団としての仲間意識でありチームワークです。仲が悪いまま良い仕事は出来ません。だからリーダーは必死になって仲の良いチームを作ろうとします。「仲良しグループじゃないんだから!」と指摘されることもありますが、殺伐とした職場よりは絶対的に安心できると思います。

本当の意味で有能なチームになるためには、単なる仲良しではなく、「安心して何でも話し合える環境作り」を実践できる仲間でありたいものです。

仲が良すぎる管理職グループ、仲が良すぎる同期入職チーム、仲が良すぎる新人チーム。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と前述しました。仲良しグループには「規範意識」芽生えます。「規範意識」が高くなれば、これを守らない人には何かの罰を与えたくなります。これを「サンクション」という制裁行動に発展し、過激化したものが「いじめ」や「ハラスメント」になってくるのです。これは、先に述べたグループ内の反規範行動のみならず、グループに脅威を与えるような人や組織に対しても起こり得ますから、社会の中での人間模様が一筋縄ではいかないことがよく分かる理由です。

向後千春 幸せな劣等感 小学館新書 2017

向後先生は以下のように示しています。「私たちは、こうした共同体の中に、自分の居場所を作ろうとします。自分の居場所がなければ生きてはいけません。それは、自分の生活を立てていくという経済的な面からも、また生きている意味を見つけるという心理的な面からも必要なのです」と。

アドラーの教えは、私たちの職場において多くの問題解決のヒントを与えてくれています。口を挟むのか、水を差すのか、意見を述べるのか、または問題の分離をし、そっと見守っているのか。とても重要な事です。みんなそれぞれに、自分の居場所を確保する事に必死なのです。だから「サンクション」という制裁行動に及ぶのです。しかし、向後先生は以下のように示します。

「私たちは全員が無力のままにこの世界に生まれてきます。そして保護されながら少しづつ成長して、能力を高めていきます。しかし、いつまでたってもパーフェクトな自分にはなることができません。そこで必ず劣等感を抱くというわけです。」

「口を挟む」人にも劣等感があるわけです。だって強ければ口を挟まずとも何をしたって全然平気ですから。口を挟まれてカチンとくる人にも劣等感があります。ズバリ指摘されて居場所がなくなる感覚に陥るからです。

正しい指摘がいじめの始まりにならないように。
僕が初めて勤めた職場のように。
それが僕の願いです。

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