遅れてする映画評論『そして父になる』
是枝裕和『そして父になる』(2013年)
子供をエクスチェンジされるなどという事態に自分は到底耐えられないだろうと、子供の顔見て「切ない」で停止して以来放置していたが、『万引き家族』が「そこで止まるな」と言って来たので、勇気を出して視聴断行。
自他への厳しさと、克己をひたすら生きる者たちは、強いからその軒昂さを示すわけではない。逆だ。弱く、何かと向かい合う勇気がないからそうせざるを得ないのだ。
しかし、やり手のオフィスワーカーの歪んだストイシズムは、そのコストを払わねばならない。それは「お前は力を出すポイントを間違えている」と面罵されることだ。何かによって。
高級タワーマンションに住むエリート君(福山雅治)は、弁当屋でパートをやりながら田舎の電気屋のダメ亭主を支えるカミさん(真木よう子)に喝破される。
「血なんていうのはね、つながり方に自信が持てない男の言い草よ」と。
この「つながりの希薄さ」は、普段は「(うまくつながれない)代わりに俺はこの世の厳しさと、俺にしか与えてやれない何か(会社の業績!)を構築してるんだよ(建設会社!)」と合理化できる。
しかし、自分が「つながれなかった」という傷を、「だから歯を食いしばって成功した」と異種なる等価交換したと強弁し、処理することは、やはりできない。所詮「異種交換」だからだ。
そのことをエリート君に知らせるもの(宿題の清算はそれほど簡単にはいかんのよ)は、看護婦の悪意であろうと、病院の管理ミスであろうと、ただの偶然であろうと何でもいい。
本当はあの人とつながり続けたかった(実の母さん)という気持ちと、つながっていないはずなのにつながってくれて、いまも「くだらない話がしたい」と言ってくれるこの人(継母)に、「謝りたい」とエリート君が漏らした時、彼の「父としての本当のプロセス」にスイッチが入ったのだと思う。
そして自分は、頑なな何かが、何かの弱さゆえの頑迷さが、かつて自分が受けた無形の愛情を源に、予想不能なタイミングで「勇気」を醸し出し、ふと「コトン」と音を立ててかたくなさが緩み、名付けようもないある種の謙虚さが人間に訪れた時に、そこに立ち会った時、涙腺が決壊するのだということがわかった。
弱き、幼き、つながりに傷を持ち、それでも「母さんを守らん」とするかつての自分に遭って、このスイッチは入った。
ドラマツルギーとしても、映画の仕掛けとしても、言うことがない周到さだ。
「(このことがわかって)あなた最初に何て言ったか覚えてる?」と、本当に切なく怒り訴えた尾野真千子は、そんなにダメな男の心情吐露すら受け止めて、きっとこの後も一緒に暮らし続けるんだろう。
自分もそういう他者の持つ「肝っ玉」のおかげで、今を暮らせているのだと思った。
人が何かになるのに近道はないんだな。
都会と田舎を高級車レクサスが往復する間に、ひたすら映像に流れ続けた「電線」を眺め、「是枝、これだよな?」と呟いた。
全部計算して、人を泣かせやがる。このやろう。
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