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《従軍記者》という概念

《従軍記者》といっても戦争の話ではない。第三者的な記録者の位置づけをここでは《従軍記者》という言葉で呼んでいる。

世の中には、本当によい活動をしている人たちがいる。価値のある取り組み、姿勢、そして周囲の人たちに多大な影響を与えている人たちだ。そういう人たちや活動は、福祉の現場でもNPOの活動でも、さまざまな地域に点在している。

そういう人たちは本当の意味で人に寄り添い、ものすごい熱量で活動をしている。だから自分たちを記録する余裕はない。だからその場にはいなかった人たちには上手く伝わらない。その良い活動はその場に立ち会った人たちの心に深く刻まれているのに。

だからこそ《従軍記者》という概念が必要となる。《従軍記者》はその活動自体に強くコミットすることは求められない。活動への共感はあった方が質が高まるが客観性も求められる。その場で起こったことを記録し、無言のままに《ここで起こっていることは何なのだろう》と問いかける力が求められる。そのような問いはその場にいなかった人たちの心にも届く。

普段の活動でイベントやワークショップを頼まれたり立ち会ったりすることは多い。だから企画から携われるときは《従軍記者を置きましょう》と持ちかける。

《従軍記者》を置くことはそれほど難しくはない。熊本県の高校をつないで行った下記のオンラインのイベントでも《従軍記者》がいる。このときの《従軍記者》は放送部の生徒さんたちだ。参加した高校生は128人。そのうちの3人は撮影隊として入ってくれた。

《従軍記者》の彼らは上記のワークショップ自体には参加しない。参加はせずに、何がおこっているのかを見、どんなことが話されているかを聞き、そして撮影し編集する。彼らがいるからこそ、《そこで何かが起こったかもしれないという予感》が参加していない人たちへも伝わっていく。

《従軍記者》は第三の眼だ。当事者でも支援者でもなく、場合によっては課題そののものへの関心があらかじめ高い必要さえない。写真が好き、動画編集が好き、書くことが好き、伝えることが好き、人が好き、きっかけは何でもよい。彼らのきっかけが自由であればあるほど、いままでとは違う視点を内部に取り組むきっかけにもなる。Inside-OutとOutside-Inの歯車が回り出す。第三者である彼らを巻き込むことで活動の熱量は内向きだけではなく外に向かっても広がっていく。

そういった存在の意味を再認識し、全体のプロセスの中に取り組みことの全体が《従軍記者》という概念ともいえる。

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