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自由で楽しい時間:四元康祐『ダンテ、李白に会う』

四元康祐『ダンテ、李白に会う 四元康祐翻訳集古典詩篇』を読んだ。

面白かった。詩人の四元康祐氏が、リルケ、ディキンソン、ダンテ、杜甫、李白、ウィリアム・ブレイク、キーツなどの詩人の詩を、四元康祐氏が自身の観点で訳していくのだけれど、それがとても自由なのだ。

たとえば杜甫の有名な絶句。

江は碧にして鳥は愈よ白く
山は青くして花は然えんと欲す
今の春も看のあたりに又過ぐ
何の日か是れ帰る年ぞ

著者はこんな風に言う。

西洋ではソクラテスの頃から、地球上のどこであれ今いるところを自分の故郷として受け入れることが文人の徳のひとつと見なされていたそうだ。そういう感覚でこの詩を読むならば、最後の「帰る」は地上からの帰還、すなわち最後のときとも解釈できる。すると俄然スケールが大きくなって、最初の二行の川や山が宇宙空間に浮かぶ一個の惑星そのものに思えてくるのだ。

そして、こう訳す。

川の深みを羽搏いて鳥の翼は輝きを増し
木々の若葉に抱かれて花は華やぐ
僕はまだここにいる 時間の岸辺で
なす術もなく過ぎ去ってゆく春を見ている


同じ詩を読み、心でも同じような風景を眺めていたはずだったのに、著者の心と言葉はすばらしい跳躍をする。

私はそれを美しいと感じる。《言語》の本質とは、伝達であり、ずれであり、飛躍と拡張だと思うからだ。それこそが《ことば》がシステムとして《生きている》ということだと思うからだ。世界は《ことば》を中心に拡がっていく。それはとても楽しいことだ。

若いときにリルケの『マルテの手記』を読んで衝撃を受けたことを思い出した。そこには出会ったことがない言葉と風景があった。一方でリルケの詩は私には少し難しかったようにも思う。

いまこの著者によるリルケの詩の訳を読み、リルケに驚いたあの頃の気持ちを思い出す。どこか懐かしいような気持ちすらする。

わたしの生は拡がる波紋
はなをこえ くもをこえ そらをこえて
わたしはいつまでものぼってゆける
たとえ一番外側の輪には遂には追いつけないとしても
わたしは永遠のターンテーブル
神さま― 宇宙の始まりの塔のまわりで
わたしがわたしから溢れてゆきます、鷹へ、嵐へ
大きな歌のうねりのなかへ

とおい空に掲げられた、私は旗だ
吹き来る風は云うだろう、これがお前の宿命なのだと
都会の甍は夕陽を浴びてる
家々の戸はかすかに開いて、なかは暖かい
窓ガラスは息をひそめている! 塵ひとつ舞い上がらない!


元の詩からどれくらい跳躍しているのかはわからない。そんな跳躍を翻訳ではないと言わないこともできるだろう。しかし、そもそも変換っていうのは面白い仕掛けなのだ。《違うのに同じ》《変形させても同じ》という部分にものごとの本質は隠れているような気さえする。

そういうことを見つけたり知ったりすることは楽しいし、そういったことが楽しかったことを思い出させてくれる。《遊び》とは本来そういったものだったはずだし、《何かを知る》ということ自体がそもそも自分の心の中での変換だったかもしれない。

ディキンソンとウィリアム・ブレイクは最近になってから読んだ詩人だ。本書で読むと「あれれ、こんなに面白かったっけ」と驚いてしまう。著者の訳すウィリアム・ブレイクはなんだかちょっと可笑しくて可愛いし、ディキンソンは私が思っていたのよりもずっと明るくて饒舌でおしゃべりだ。

キーツもそう。ああ、そうか、キーツは実はこんな感じだったのか、こんな風に読めばよかったのか。。。と思った。

けがれをしらぬしじまのはなよめ
しずけさとはるかなときのおとしだね
ひとのうたよりあまくせつあく
ぎりしゃのつぼはかたりつぐ
いまなはきはなのさだめを

くさをまとったつぼのからだに
こめられたかみのささやきひとのさけび
おやしろで またまきばのはずれで
おいすがったのはだれ?
くちびるをそむけたのはだれ?

とおいそらからふえやたいこ
くさむらでくんずほぐれつ
からみあうふたつのたましい
なすすべもなくほとばしったのは
どんなよろこび?

ダンテの『神曲』には私はまだ出会っていなかったので、四元康祐版『神曲』を読むほどに、私の中で『新曲』の世界が組成されていくのを感じる。そして大団円。

コキュートスを永久の氷に閉じこめている
その六つの眼からは涙が溢れ、三つの顎を伝って
血の唾と混じりあい、ぽたりぽたりと滴り落ちる

センセイが前になり、俺がその後ろをついて、ふたりは
歩き続けた、やがて前方にちっぽけな丸い出口が現れ
その向こうに美しいものを宿した天国が開けてくると
俺たちは外へ出てふたたび星を見上げた

伊藤比呂美の『読み解き「般若心経」』も新鮮でとても良かったのだけれど、四元康祐『ダンテ、李白に会う』には心の底からびっくりしてしまった。そして何より楽しかった。

伊藤比呂美も四元康祐も私よりはほんのわずかに年上の詩人だけれど、現代詩の既存の枠を軽々と飛び越えていると感じられることに、なんだかちょっぴり嬉しくなってしまった。

訪問していただきありがとうございます。これからもどうかよろしくお願い申し上げます。