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バールのようなもの

《バール》という言葉に私が初めて出会ったのは、確か藤沢だったか平塚だったかの市民ホールで聞いた志の輔の落語だった。

その市民ホールには2階席があり、ただでもらったかかなり安かったかしたチケットで入った2階席から見ると、志の輔は米粒のようにびっくりするほど小さかったように思う。

それでも声は、NHKの『ためしてガッテン』で顔なじみの志の輔の声だった。そして語られているのは、いままで聞いたことがなかった言葉、"バールのようなもの"だった。

とても面白い落語で、youtubeで改めて聴いて、改めて笑ってしまった。

志の輔によれば、バールとは、犯罪者が使う、なにかをこじ開けたり、叩き割ったり、うち破ったりする道具らしい。念のために聞くが、あなたはバール、もしくはバールのようなものを見たことがあるだろうか。

その《バール》という普通は不慣れな言葉が、既に21世紀にはいって四半世紀に至らんとしているのに、いまだにニュースで普通に使われている。

次のニュースです。
11月26日午後6時40分ごろ、東京・台東区上野のJR御徒町駅近くにある宝石店に3人組の男が押し入る強盗未遂事が起きました。3人の男は、ショーケースをバールのようなもので破壊し、商品を奪おうとしましたが、さすまたを持った従業員の抵抗にあい、何も取らずに逃走しました。

《バール》はともかく《さすまた》かよ?とこのニュースを聞いて思わなかった人がいるのだろうか。しかも、《さすまた》については、ニュースでも落語でも、《さすまたのようなもの》とは言わない。不思議だ。

《さすまた》なんてそんなもの、銭形平次でしか見たことがない。すなわち、現代においては、《バール》よりもずっとその実在性が疑われるものではないかと思う。


整理してみよう。志の輔が《バールのようなもの》について語ったとき、街頭にも店内にも防犯カメラのようなものはほとんど存在していなかった。

したがって、たまさか私だけが《バール》という存在を知らなかったとしても、状況的には、世の中にそれは現に存在し、かつ、警察等の関係者は目撃証言や状況証拠から、犯行に《バールのようなもの》が用いられたと推定していたと考えられる。

一方、今回のニュースで、《さすまた》が《さすまたのようなもの》と表現されないのは、《さすまた》が店員によって使用され、防犯という購入目的を含め物的証拠ととものにきちんとした証言が得られているからだ。

すなわち、過去においても現在においても、《バールのようなもの》という表現は、《バール》だとは思うのだが、実はそこが確信がもてず不確定であるということを意味しているということになる。

《のようなもの》の本質はそこにある。

しかも、日本には、白か黒かと聞かれたときに、本当は白と思っていても白とははっきり言わない文化が存在する。直接の表現を避ける意図を持った言い方だということである。

本当は"優勝するぞ!"と言いたいが、ビッグボスのようなものに思われては困るという配慮から、《アレ》という。その《アレ》が新語・流行語大賞に選ばれる。曖昧なものは曖昧に。本当に奥ゆかしい伝統だ。

そういえば、言葉を省略する文化もそういうものかもしれない。主語も奥ゆかしく省略する。言葉も短く省略する。

たとえば《クリパ》。奥ゆかしくない私はどこのパだよと思うが、世間一般はそうではない。昨今のニュースでいえば、《パーティーのようなもの》に関して《パー券》を売って、売上げから多少余分にお金を貰っても、無闇矢鱈に人に言ってはいけない。そっと黙っているのがよい。実に奥ゆかしい。

ちなみに《クリパ》で検索するとwikiは下記を提示してくれた。これはこれでなんとはなく楽しい。

志の輔の落語で《バール》の存在を認識した後、志の輔が語ったのは清水義範の短編『バールのようなもの』を元にした新作落語だと知った。そして同《のようなもの》を限りなく気にする感性にも取り憑かれてしまった。元はといえば、清水義範である。以来、《のようなもの》と《清水義範》が気になってしょうがない。

訪問していただきありがとうございます。これからもどうかよろしくお願い申し上げます。