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あの日。。。

27年前のあの朝、神戸市垂水区にいた。五色山古墳に近いうちからは、明石海峡と淡路島がよく見えた。だから、地震の後、立ち上がって、窓から見た海は、震源(34°36N, 135°02E)だったのだと思う。窓からは薄暗く淡路島が見えた。予震のようなものは一切感じなかった。

断層の延長線上になかった垂水は、長田以東よりも大分被害は少なかったのが後からわかる。そのときはわからなかった。食器がたくさん割れたのはわかっていたし、薄暗いのでしばらくじっとしていた。

しばらくそうしていたが、少し明るくなってきたのと、ガスくさい気がしたので、表に出た。表には上司のmotoさんが立っていた。

住んでいたのはマンションの5階だったので、隣の3階建てのアパートの屋上のタンクから水がじゃーじゃーと流れているのが見えた。近所の家の瓦はみな落ちていた。屋根に登っている人がいたので「危ないなぁ」と思った。あのときは、自分たちがいる垂水が一番ひどい状態なのだと、理由もなく思っていた。

motoさんに「公衆電話ならかかるぞ」と言われ、埼玉の実家にいたドロシーに電話をした。6時半頃だったと思う。「神戸で地震だ」と伝えたが、よくわからないようだった。「とりあえず無事だから心配しないで」と伝えた。

住んでいたのは家族向けの社宅だったので、会社の人たちがロビーに集まってきた。そして「どうしようか」と話をした。

なんとはなく「会社(工場)に行こう」という話になりかけたとき、部長の一人、赤松さんがこう言った。

「これは、尋常でないことが起きたのだと思う。尋常でないことだとすれば、家族が第一だろう。会社に行くには車が必要だが、道を混雑させるばかりだ。とにかく、何が起こったのかがわかってから行動しても遅くないだろう。」

我々は会社に行くのを止めた。

今から考えても、赤松さんのあの時の判断は正しかったと思う。明石の単身赴任寮にいた人たちは、会社(工場)を見に行き、建屋の中に入ったという。それは誤った判断だった。

しばらくして、雪のようなものが舞っているのに気づいた。しばらくして灰だと気が付いた。どこかで火事が起きているんだなと漠然と思っていた。

うちから東に見える須磨山は、まるで小さな噴火のような煙をあげていた。あれは長田が燃える煙を噴煙のように見ていたのだと今はいえる。

部屋に戻ってよく見るとアップライトピアノが足を畳に突き刺し、傾いた状態で止まっていた。大きな箪笥の下になぜか定規が挟まっていた。

地震は今でも怖い。


あの日を境に心の中で何かが変わった。1995年は私の中の変曲点なのだ。


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