『「美味しい」とは何か 食からひもとく美学入門』を読む。

本書の半分近くは「美味しいものは人それぞれ」という主観主義と、「料理本来の味」を求める純粋主義、この2つの大きなイデオロギーを解体することに費やされている。

たとえば、何時間も煮込まれた豚骨ラーメンのスープを飲んだときに、Aさんは「濃厚だね」、Bさんは「濃すぎるね」、Cさんは「すっきりした甘さだね」と言ったとする。主観主義に立脚すれば「人それぞれ感じ方は違うよね」となるはずだが、日常的な現実としてはそんなことはほとんどありえない。AさんとBさんが「Cさん、そりゃないよ」となるのが自然だろう。Cさんの評価は、どう考えても一般的に間違えている。

ここで重要なのはCさんの「すっきりした甘さだね」という感覚はそれ自体はたしかに事実かもしれないが、それぞれの文化圏において「美味しさ」について正誤の判断が“ある程度”は存在するということである。

むろん、これは“ある程度”であって、主観主義を完全に否定する客観主義、つまり「本人の外部に、味わいを決定する基準が確固として存在するという考え方」が有効だというわけでもない。

たとえば、世界中の飲食店を食べ歩いているグルメ界の権威が「美味しい」と認める料理だけが美味しいわけではないし、レビューサイトで一番評価の高いお店が一番美味しいわけでもない。かといって、やはり“ある程度”は、レビューサイトやグルメ通のオススメが現実には機能していることを考えると、安易に主観主義や、その真逆の客観主義に偏れないことを確認しておこう。

次に、純粋主義とは「料理の味自体ではなく、様々な周辺情報によって味わいが変わっているのはけしからん」という考え方だが、これも本書では否定される。様々な実験結果によって判明しているが、そもそも人は純粋な味蕾と嗅覚だけでは味がよくわからないし、「料理の事前説明」といった周辺情報で味わいが変わってしまうのは、人間の情報処理のシステムとして端的に事実である。

また、もし徹底的に情報を排除した純粋主義の立場をとるならば、出された料理に対して「そもそもこの料理は安全なのか」と野生動物のようにビクビクしながら食べねばならない。なぜなら、事前に「この料理は安全ですよ」という情報すら味わいに影響するからである。食を追求しようと思うと、ついつい人は純粋主義に陥ってしまうがこれはまず不可能なのである。

むしろ、私たちは様々な過去の経験や情報を統合して味を判断しているのだから、料理にまつわる様々な知識を得た方が食を楽しめるのである。レストランでダラダラとウンチクをひけらかすグルメ気取りは、たしかに鼻持ちならないが、少なくともその「グルメ気取り自身が多くの視点を持ち、食を楽しんでいること」は認めねばならない。(もちろんそのグルメ気取りには、たいてい友達がいないし、物理学とは関係ない場面でも「量子力学」という言葉を連呼するような奴だが、それは別問題ということだ)。

さて、この主観主義と純粋主義に関する議論は、他の音楽、絵画、映画、ファッションなど「文化」や「芸術」と呼ばれるあらゆる美的判断にかかわる論点でもある。

たとえば、俺はヤンキーではないのでよくわからないが、あるヤンキー文化圏における「特攻服の善し悪し」は確実に存在するし、オーディオシステムにどこまでこだわろうとも「純粋な音響」というのは有り得ない。

文化とは、ある文化圏における正誤の判断やその判断基準それ自体が、常に押し合い引き合いしている、うごめく運動体のようなものである。

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