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2022年J2第7節 横浜FC-モンテディオ山形 「出羽三山を越えて」

3月30日の試合の数日前のモンテディオ山形公式のツイートを見て、NEC山形サッカー部がスタートであることは知っていたのだが、このクラブの源流は鶴岡にあると初めて知った。だから、もう10年以上前に起こった「月山山形」への改名の話が出たことに今更ながら合点がいった。
山形県は西側は日本海に面しているが、山に囲まれた土地で、山形県は鳥海山、蔵王山、烏帽子岳はじめ多くの山があり、それがモンテ(イタリア語で山)+ディオ(イタリア語で神)に繋がっているのだが、それらの山でなくなぜ月山なのか。
月山は出羽三山と呼ばれる3つの山(湯殿山、羽黒山、月山)の一つで、この出羽三山は修験道のメッカである。この山岳信仰の中心地の名前を借りようとしたのは想像に難くない。(湯殿山山形や羽黒山山形では語呂が悪いか)またこの出羽三山の開祖・能除仙は鶴岡の浜から三山に向かい、羽黒山、月山、湯殿山と開山していったことを考えると鶴岡と、つまりNEC山形サッカー部と縁があるのである。横浜は文字通り山の神に横浜は挑んでいるのである。

行きはよいよい

前半19分小川のミドルシュートが山形ゴールを貫く。縦パスを入れようとした手塚が、キックモーションに入った時に蹴る先を変えて小川に渡した。小川はマークに来る山形・加藤を振り切り、南を股抜きで交わした。ここからどの選択をするかと見ていたら右足一閃でゴールを決めた。コースはゴール中央ではあったが、左に曲がったボールがさらに右に曲がる不規則な変化では山形GK後藤もどうすることもできないものであった。横浜の先制でゲームは動く。あれはストライカーの考えることで、例えばテクニックがある選手だと、股抜きしてルックアップした瞬間に探すこともあるし、左利きだと目の前は4人のフラットなラインしかないので、サイドのクロスを選択したりもする。その中でシャドーストライカーらしい豪快な一撃は正解だった。

なぜ小川が相手ボランチの外側のエリアでボールを受けたのか。
鍵は、新型コロナの感染拡大とターンオーバーが考えられる。甲府戦のスタメンだった齋藤、ゼイン、そしてベンチメンバーだった中村も不在。この試合当日直前にも選手の新型コロナの陽性反応の旨リリースがあったほど。特に中心でボールを運んでいた齋藤の欠場は大きかった。
高橋が中盤になると守備は良くともボールを縦につけたり齋藤のように自分で運んで剥がしてゴールまでといった代役は難しい。ここで気を利かせて降りてきていたのが小川と長谷川。特に小川は相手ボールになると2トップとしてプレッシングをし、マイボールになると高橋の傍でボールを受けられるスペースに顔を出していた。
その分攻撃面でフェリペ・ヴィゼウが孤立しがちになるが、それを逆手にとってダミーとして動かすことで中盤でのボール保持を狙った。先制点のシーンでも手塚は、ヴィゼウに縦パスをつけようとしたが、蹴る瞬間にマークが来ているのを見て、ターゲット急遽小川に変えたので体が開いておらず窮屈なモーションになった。が、それが結果的にゴールに直結するのだから今の横浜は強い。

関所を締める

この日の横浜は左サイドの武田が圧倒的なパフォーマンスを披露。対面する山形・横山に仕事をさせないどころか、右サイドバックの川井まで制止する驚くべきプレーは出色の出来。左サイドで弱点が見えたのは、武田が出ていった際に、そのスペースを中塩がスライドするのか、誰かが落ちるのかが整理されておらず、そこを使われてしまう場合だった。山形の右サイドが絞った時にオーバーラップする選手を捕まえていない。誰の目線で見るかによるのだが、今の四方田システムは局面局面で一人一人が頑張らないといけないシステム。武田が前からプレスに行ったスペースは中塩が頑張らないといけないし、そこでスライドしたスペースはまた誰かが頑張らないといけない。その間に武田が頑張って戻ってきて挟んでボールを奪っての繰り返し。ラインの設定の高さや幅などは調整があるものの基本的にはそれ。でもそれって、四方田監督だからではなくサッカーとはそういうもので、それを選手個人個人の判断に頼るのか、規律として植え付けるか。今年はマークを受け渡すとしても自分の持ち場を離れたらそれまでではなく、次の展開を考えて動かなければならない。規律として植え付けて、習慣にし、選手個々が判断するのが当たり前にもっていく。
事実、前半35分近くに長谷川が山形・山田を倒したプレーでも、前線からボールを追い亀川も高橋も前線に出て行った際に、裏に蹴られたボールを対角にいた彼が追いかけたもの。そこで前を向かれるとディフェンスラインだけというシチュエーションを止めたのは大きかった。前半山形にチャンスはあったものの時間を追うごとに前を向く時間が減っていく横浜にとって最高の状態で後半に進むことになった。

川の神

山の神は、春になると田の神となって降りてくる。これは農民としての信仰であるが、二十四節気でいえば春分を過ぎこれから清明や穀雨を迎える。桜が咲いて、春の雷鳴が轟き、ツバメが見られるようになる。緑が広がり芽吹く季節を迎える。そして田園では、水が並並と張られ稲の苗が風にたなびく。日本の原風景と山の神は密接に結びついて、この神様がこの風景を連れてくると考えられている。
横浜には川の神様もいた。田に張られた水をもたらすのは川からの豊かな水だ。水は万物の命の源。後半20分、伊藤翔が山形がボールを後ろで回しているところにプレスをかけて奪い取ると、ゴールに向かう。山形の守備陣が伊藤を引き付けて、パス。その先には小川。右から来たボールを難なくゴールに流し込んだ。ストライカーなら左足でゴールを狙ってもよいシチュエーションだったが、そこでパスをしたところで勝負はあった。むしろ寡黙なストライカーならゴールを狙うだろうと横浜のサポーターすら騙された感があった。

横浜の小川はただの小川ではなく大河だ。7試合で6ゴール。氾濫した時もあった暴れ川だが、今は横浜の地に恵みをもたらす神の河になった。彼の存在はゴール数だけではなく、そのゴールやチームを好循環させていく。川の水が、稲を育て、人を育て、村を大きくし、大地を豊かにしていく。
伊藤翔もチームに順応している。昨年から彼を見ていた人にとっては信じられないだろう。でも、昨年のことを知らない前線のメンバーが多いからこそ連携が取れているともいえる。小川も長谷川も昨年は横浜にいない。いないからこそ、昨年の負の記憶を洗い流すことができているのかもしれない。川だけに()

帰りはこわい

ただで下山させてくれない山形。前節に続き、後半徐々に運動量が落ちる横浜。2失点を喫して、初めて「ハイテンポ」なサッカーになった。縦パスが出て、シンプルに捌いてシュートを放つ。横浜はそれを受けてしまったり、相手が深いところでボールを持っているにも拘らず、ジョグで戻り始めてしまった。選手の問題というよりも、確実に2点差という安心感と疲労感なのは理解できる。ただ、それだから仕方ないではよくない。
後半29分、伊藤翔のファウルで与えたフリーキックの折り返しをヘディングであわされて失点。マークがおらず山形・山崎にフリーでシュートを決められてしまう。

この日の主審は全体的に当たりの強い接触でもファウルを取らず、横浜としてはカウンターで持ち上がった際にファウルをとってくれずフラストレーションが溜まっていく。途中で入った松浦も相手選手と軽い口喧嘩になっており、選手の認識と主審の基準にやや差があったのもまた事実。
逆に言えば後半それが出てしまうのは、中々調子がよくないからファウルをもらってマイボールにしてといった算段が通らないことの裏返しでもある。
それでも横浜は失点してからよく粘る。相手にボールを持たれて、チアゴ・アウベスに手を焼いたりもするが、山形のクロスの精度は高くなく、悉く弾き出す。前線からプレッシャーにいく体力が難しくなればそれを受け入れてブロックを敷いて、山下のカウンター狙いに徹するのは現実的である。

信じる者は

アディショナルタイムの4分を過ぎてタイムアップの笛。データ上ではボールの支配率やシュート数は山形が上回ったが、ゲームは横浜が2-1と勝利。だからと言って横浜が引きこもっていた訳でもなければ、山形が圧倒していた訳でもない。横浜は小川の2点目以降シュートも打てなかったが、それでもこれが通常運転だと思えば四方田劇場の幕引きはこんなもんだろう。水戸黄門も印籠が出たら、物語の締めが始まるのと同じ。ウルトラマンのタイマーランプが点滅しだしたら怪獣を倒すシグナルである。ハラハラしつつも最後はめでたしで終わる。横浜はこれで開幕から7試合負けなしの首位。
ただし、2位とは勝ち点3差。残り試合を考えたらこの勝ち点差で何が起こるでもないが、気分は良い。
和田が人生初めての右ストッパーで出場を果たして勝利。齋藤もゼインも不在の中での勝利と収穫もある。誰が出ても同じクオリティでゲームを作れるのは監督としても安心できる材料だろう。
J2首位のチームのゲームの入場者が5000人もいかないのは寂しい。平日開催のゲームに限ったことではなく、水戸戦は好天だったが3000人台。昨年の傷がまだ癒えていないサポーターもいるかもしれないが、首位のサッカーを見に来ては。信じるものは救われる。長く苦しい修験道の道は続く。日々修行。勝ちたいのは山々、昇格したいのも山々。思いの強い者がそれを達成できる。また2022年横浜FCと苦楽を共にしないか。


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