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「SNS上での卑屈さってどのくらい必要なの?」

 こんにちは、岡まことです。

 昨日今年最後のライブが終わりました。
2018年歌いおさめでございます。

 前回の札幌でのライブのとき、演奏中あまりにも暑くなって中断してトイレでヒートテックを脱ぐ羽目になったので、昨日は事前に脱いでおきました。快適でした。


 noteを書きはじめてもうすぐ一か月。

 時々「今日はなにをどの方向で書こうかなぁ」と迷うこともあるんですが、今なんとなく「思いつくままにかいてみる」という方向に落ち着きました。たった今です。文章の書き方として良いかどうかは怪しいですが。
冗長上等ですな。


 「『卑屈さ』というものは、生きていく上でどのくらい必要なのだろう」
と考えることがあります。

 例えばSNSとかで、
「自分なんてどうせ何を作ったって誰にも見てもらえないし...」

とつぶやくことに、どのくらいのメリットがあるのでしょうか。
お察しの方もいることと思いますが、なにを隠そう数年前の僕です。笑

たしかに日々それなりに懸命に生きていれば自分自身の能力のなさや、あまりにも自分が世界の大きさに対してちっぽけであることに、嫌気がさしてしまうのはわかります。

でもそれを僕が僕という立場でつぶやくことは、

・現段階で応援してくれている人の思いを無視することになる
・「正直である」という印象だけは得られる

というあまり得のない、むしろ損な結果が待っています。
そして「このような人(僕)のライブに足を運びたいだろうか」と考えます。

 とはいえ、「いやまて岡まこと!人間いつだって正直な方がいいに決まっているじゃないか、てめぇは人様に自分を都合よく見てもらいたいだけの臆病者になったのか?地の底まで落ちすぎてブラジルに到達したんじゃねぇか...?あーめでてぇめでてぇ」とお思いの方もいらっしゃると思います(言いすぎですよ!)。

たしかに、正直で何一つ嘘がつけない故に時にネガティブな言葉をガンガン使っているにも関わらず、それをきちんと自分で引き受けてコミュニケーションをし、他人と喧嘩したりそうこうありながらも果敢に活動をおし進めていく骨太な方々もいらっしゃいます。それはそれで立派なことだと思います。

僕ももともと、「選り分けをせずネガティブなことも発信し続けて、それを気に入ってくれる人だけがついてきてくれればいいんだ」と思っていたほうです。

 だけどそれなりの年月のなかで人が自分の周りから一人、また一人と去っていく様子を見ているうちに、
「これはもしかして『自分のだめな部分をだめなまま受け入れてほしい』という子供のわがままになっているのでは...?」と思い始めまして。

おそらく僕は、卑屈を含めた正直さを「なにを言っても受け入れてもらえるに決まっている」という甘えの中で、すっかり慢心してしまっていたんですよね。まさに目もあてられないとはこのこと...

例えばレストランで、さしておいしくない食べにくいステーキを、食べにくい大きさで食べきれない量提供しても、お客さんは二度と来てくれないですよね。僕はまさにそんな状態でした。

まーとはいえ、生まれながらにして卑屈を含めた正直さを上手に伝える技術を備えている方々は、素晴らしい個性として(決してイヤミではなく)活用されるのがよろしいかと思います。
こればかりは人間性に依るところも大きいかもですが...


なのでまとめると、

・卑屈やネガティブなことを含めた正直さを上手に使える人は別にそのままでいいと思う

・卑屈を扱うには、
 1.発信者自身の人間性と卑屈の相性(自身のメンタルを壊さないため)

 2.結果として人に楽しんでもらえるように加工する技術(嫌われないため)
が必要

・僕自身は卑屈を扱うのがド下手なのでやめときます...

以上の3点でした。


それではまたー。




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