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【フツーの人々(5人目) / カセットテープの男】

 夕方の混んでいる電車に、その男は乗って来た。

 肌や髪の質から見ておそらく年は50代。ぼろぼろのトートバッグを肩にかけ、気づかう気配は微塵もなくほかの乗客たちですでにいっぱいの車両にグイグイ乗り込んでくる。もちろん、周囲は迷惑そうに男を見るが一向に気にする様子はない。むしろ、「そっちが何で動かないんだよ」とでもいうような視線を投げかけてくる。けれど男とほかの乗客の視線が交わされることはない。

 男は紺と白の大柄のチェックシャツを着ていた。白地ではあるものの洗っていないのか年季ものなのか、うっすら黄ばんでいる。シャツの襟はまくれていて、何年もそのままのように見えた。髪は自分で切っているのだろうか、短いものの整っておらず、あちらこちらに跳ねていた。全体的には短髪の部類に入るだろう。髪には白いものが混じっている。時折、ゴリゴリと頭を掻くため、肩にはフケが溜まっていた。男の背後に立っている女性は反対を向いているため、そのことには気づいていない。仮に同じ方向を向いていれば、次の停車駅まで確実に息を潜めていただろう。

 発車してからというもの、背中や肘を使って強引に自分の専有スペースを作った。周りの乗客はひどく迷惑そうに、あるいは物言いたそうに男を見るが、あまり効果はない。小さな子どもを連れた母親が近くにいたが、何か直感が働いたのか、子どもを自分の身体に手繰り寄せていた。

 男のシャツの胸ポケットにはカセットテープが3本入っていた。だがそれは男にとってベストなセレクトではなかったのか、くたびれたトートバッグをぐわっと開き、時々揺れる車両の中で大いにバランスを崩しながら、バッグの中を覗き込んでいた。バッグの中がチラッと見えたけれど、何かが書かれたメモ帳、水筒、レシートのような紙があるだけで、ほかにカセットテープはなさそうだった。男は諦めたようにトートバッグを肩にかけ、胸のカセットテープをシャツの上からかちゃかちゃといじった。

 絶対にガラケーだろうと思われたが、男はスマホを持っていた。汚れていたが画面はひび割れておらず、けれどただの透明のシールのようなボロボロの液晶カバーが付いていた。男はそのスマホを大事そうに両手で持ち、radikoを聴いていた。イヤフォンをつけた耳の穴付近には毛が生え、カセットテープは男の胸にしまわれたままだった。

 もしかすると、トートバッグの中にはカセットプレイヤーがあって電池が切れているだけだったかもしれない。あるいは、その3本のカセットテープはもはや擦り切れて聞けないものの、誰か大切な人から譲り受けたものだったのかもしれない。そんなことを考えているうちに、車掌が次の駅が近づいてきたことを知らせていた。

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