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振り返らなかったのは

不思議だった。
手を引かれてそこに向かう間、雨音が異常に耳についたから。

雨粒が撥ねるアスファルトと、いつも以上に暗く感じる空の間には、
奇怪なものが見えてしまいそうな霧が漂っていた。

私は黙って母の後ろを歩いていた。

病院と言う場所が初めて別世界に見えた瞬間だった。
蛍光灯の光が、暗く嫌な空気感よ漂う廊下に反射している。非常口の緑色の光は、気を抜けば襲いかかってきそうだった。
遠くの方で笑い声が聞こえる。
その声は廊下を跳ね回るように響き、嫌な低音を残す。

いくつか病室を通り過ぎる。
うめき声がした。
いくつかの部屋のドアの向こうは、明るかったり、暗かったりした。
規則的な電子音がここからは見えない人を感じさせた。

母が誰かと話をしている。
その相手は私に気が付くとしゃがんで目線を合わせ、微笑みかけた。
なにかを諦めているような顔で、笑って見せていた。
誰もが同じ笑顔を作っていた。
誰もが同じ言葉を廊下に吐き捨てていた。

人の顔はここまで黄色くなるのかと思った。
腕からも鼻からも透明な管が繋がっていた。
さっき聞いたものとは別の電子音が隣で鳴っていた。
隣のベッドは誰も居なかったが、少しだけ開けられていた窓から入り込むジメジメした風によって、
寝ている祖父以外の気配を感じた。

母はいつも通りの声色で祖父に語りかけていた。
母の顔はよく見えなかった。少し俯いたその顔から影が伸びているように見え、伸びたその影の先にもまた色味の違った影が落ちていた。
私はその様子を母から2、3歩離れた所で見ていた。
同じく病室に居た誰かが、私の肩にそっと手を置き、お話ししてあげてと小声で言うと、その声の主は優しく優しく私の背中を押した。あまりにも優しかったので、抵抗する事も忘れ一歩一歩、影が落ちる先に近づいた。

遠くの方で何かが落ちた。
その鈍い音が廊下を駆け抜けて、すぐにどこからか人の足音が激しく近付き、遠のいていった。

祖父の目が開いていた。
話しかけ続ける母や看護師とは違う世界に生きているような、落ち着いた表情で私を見ると優しく優しく微笑んだ。
周りの音がまるで水中に居るかのようにこもって聞こえた。祖父を包んでいた膜のような空気感が、小さな気泡を私へと届ける。その気泡が弱々しく弾けた後、声が聞こえた。

元気か?

わたしは小さく頷くと同時に部屋を飛び出していた。

誰かの声が私を呼んだ気がした
その声が歪んで
その声が消えて
頭から離れなくなって気持ち悪くなった

薄暗い廊下
漂うものを押しのけてひたすら外を目指した
消えたり現れたりする気配を無視して

振り返らなかったのは
どこまでもその笑顔が追いかけてきそうだったから
立ち止まらなかったのは
そのまま進めと言われた気がしたから

泣くこともせずに走ったあの日を
今も思い出す

そしてまだ
私は走っている