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セカオワとフェミニズム

「今日電車に乗っているとき、何しましたか?」



就活で某出版社の面接を受けたとき、最初にされた質問だ。


頭が真っ白になる。えー、何してたかな、、いや、この面接のために志望動機とかあれこれちゃんと言えるように準備してるに決まってるだろ!



と思うが、そんなつまらないことを出版社の面接で言えるわけがない。頭を巡らせる。



「ええっと…、Twitterを見てました、SEKAI NO OWARIのSaoriさんのツイートがちょっと気になって」


言葉につまっていた私を見る面接官の目が変わる。

「どんな内容だったんですか?」


こんな内容である。





私はこのツイートを見た時、平たく言うと少しびっくりした。


びっくりした理由には2つあって、1つは男性側トイレにはオムツ台がないこと(まあ入ったことないしな)、2つ目はSaoriさんが「こういう」ツイートをするのはめずらしいと思ったからだ。


そしてびっくりが「少し」だったのは、Saoriさんがこのツイートの少し前に藤崎彩織という名前で出版したエッセイ本には、「こういう」エピソードが書かれていたから。


卒論で「ジェンダー」とか「フェミニズム」についてちょっと勉強していた当時の私は、「こういう」内容にアンテナが立っていたこともあって、


「まさか趣味アカで出会えるとは…」と面接前にも関わらず電車の中でドキドキしてしまったのだ。

***


さっきから「こういう」って書いてるけど、どういうことだよ、という感じだが、「こういう」というのは、Saoriさんが指摘するように、多目的トイレやオムツを替えるための部屋がない場合において、


「男性トイレにオムツ台が設置されていないことが多い

=男性が赤ちゃんを連れてトイレに入ることが想定されていない」

もっと言うと、

「子育ては女性がするもの」

という前提がトイレの設計にはある、ということ。


また、このツイートは19万いいねがついていた。


「結婚したら夫婦は同姓でなくてはいけない」という現状は、私の家族もそうだし、よくパスワードを設定する際にある「秘密の質問」に、「母親の旧姓は?」があることにしばらく疑問はなかった。



ただ、少しおかしな話だ。日本の制度上、「同姓にしてもいいよ」ではなく、

「同姓にしろ」

と強制するわりには、Saoriさんの言うようにパスポートの名義変更に金はかかるし、他にもクレジットカードなど様々なものの名義を変更しなくてはならない。いや、何年この名字でいろいろ名義作ってきたと思てん!と感じるだろう、普通。


さらに、名字を変えると、それまで仕事などで「○○○○さん」で実績があったのに、「□□○○さん」になるとそれまでの実績や人脈がうまくつながらなかったり、また様々な理由で離婚などの決断をした場合、本来はプライベートな話題であるはずなのに



「○○○○に戻りました…」とそこまで親密な仲でもない人に大っぴらにしなくてはならないシステムになっている。(とジェンダーの授業の先生が言っていた)


そして、そのような少し不利な役割を、ほとんど女性側が引き受けてきた。




夫婦で別姓を「選べる」ようにしよう、という動きは広がっているものの、その議論は何回も途中で頓挫している。

変えたい人は変えればいいし、変えたくない人は変えなくてもいい、というのが通用しない。


Saoriさんの140字の短い文章の中には、これくらいの「前提」があることが指摘されていると思う。


**

Saoriさん、藤崎彩織の「読書間奏文」というエッセイの中に、こんな一節がある。

子供にとって、確かにママは特別な存在だろう。
でも、パパだって同じだけ特別な存在であるはずなのに、子供が産まれたばかりの男性が働きに出ていても
「子供は大丈夫なの?」
と聞かれないのは、どうしてだろうか。

(藤崎彩織/読書間奏文 p.167)

Saoriさんが産後2ヶ月で仕事に復帰した時、スタッフからかけられた「子供は大丈夫なの?」という「何気ない」言葉について考えた、というエピソード。


Saoriさんは、セカオワのメンバーやスタッフ、ご家族に支えられながら子育てをしている、とライブのMCの時にも語っていた。


みんなで育てる、ではダメなのか、子育ては親だけでやらなくてはいけないのか、


男性の育休の取得率が10%にも満たない、

男性の育児参加が難しい状態に置かれているから「イクメン」なんて言葉がわざわざ生まれる。


そんな、私たちの周りで当たり前とされすぎて気づかない、内面化されている前提が、「こういう」なのである。


「Saoriさんのツイートを見て、どう思いましたか?」

面接官が質問を重ねた。


「Saoriさんみたいに、影響力があって、たくさんの若いファンを抱える人がこういう発言をしてくれるのは、とても大切なことだと思いました。」



私は、大学に行っていなかったら、たぶんこういう「当たり前」になってしまった前提に気づくこともなく、自分が不利な状況に置かれても「仕方ない」と思ったかもしれない。



SEKAI NO OWARIは、なんだかんだ中学生や高校生など、子育てや仕事などを経ていない若いファンも多い。(私もそんな経験ないけど、私なんかもう古参で老害だよ!ぴえん!)


そんな私たちに、慣れてしまった前提から「ハッ」とする機会のために、じゃんじゃかつぶやいてほしいと思った。



「フェミニズム」というと、堅苦しいイメージで、最近なんかは「ツイフェミ」が引き合いに出されて叩かれることがあるが、少しかじったくらいの大学生の私でもそんなことはないと思う、といえる。



「フェミニズム」は、「性差別からの解放を目指す」ものであって、どちらかの性を叩くものじゃない、


むしろ、女性も男性も、「女なんだから子供見ろ!」「男なんだから子育てより仕事だろ!」と強制されるのではなく、また「オムツ替えないと!」と思ったらトイレですぐ替えられる、




そんな日常が来ることを目指すことではないかと、Saoriさんの文章をみて思うおかゆでした。



心がひたひたになるような文章です、ぜひ。


おわり


参考

北村紗衣(2019).『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』.書肆侃侃房.


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