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2年前に予約した本

 文学フリマに出すための短編小説を完成させて入稿させた先週の土曜日、地元の図書館からメールが来ていた。ほぼ徹夜で文を完成させて、その後サークル仲間のみそちゃんと電話をしながら原稿の最終確認や表紙を完成させ、気づいたら陽の光も浴びずに日が暮れた頃、ぼんやりする頭でGmailのアプリを起動した。

 私のGmailのアプリは常に通知が3桁で、icloudのメールとGmailのメール全てを紐づけているメールアプリの通知は4桁が常で、その赤い通知マークを見た大学の友達からは「ありえない」とドン引きされたことがある。

 メールには予約した本の準備ができました、と書いてあった。
 私は常に図書館の本を延滞してしまって、延滞通知が来てから1週間後に返しに行くこともよくあって、メールが来たときは最初「まだ返してない本あったっけ」と考えていた。それに、「予約した本」と言われてもピンと来なかった。最近1ヶ月以内に予約した記憶がなかったからだ。

「推し、燃ゆ」

 本のタイトル欄にはそう書いてあった。2年前に予約した本だった。

 『推し、燃ゆ』が芥川賞を取った時、何となく地元の図書館のサイトで検索して出てきたので、何となく予約したら、予約人数が800人を超えていた。

 これはもう、あと3年は回ってこないな。

 別に急いで読みたいムーブでもなかったので、予約したまま放置していた。去年1回だけ予約していたことを思い出してサイトのマイページを見てみたら、まだ300人以上私の前に待っている人がいて、まだ当分回ってこないな、と思っていた。本が私の元に来るより先に、文庫本化され、本屋に行くと平積みされていた。

 2年待った、というか、せっかく回ってきたのだし、借りるか。

 1週間ずっと原稿を書き続け、机の上がファイルや参考にした本や洗濯物の下着で埋まる中、隙間を埋めるように置いたパソコンの前で、私は頭の中の「日曜やること」リストの中に「『推し、燃ゆ』を借りに行く」を追加した。


 次の日、図書館で本を受け取ると、思っていたよりも薄くてびっくりした。色鮮やかなピンクのカバーに、美しい青色が中表紙に使われているその本は、もう24刷されたピカピカのハードカバーで、もう何百人も借りてきたとは思えないほど、読者の手垢のようなものが感じられなかった。栞がわりの本の紐の先端が少し解けていて、そこから辛うじて誰かが読んだ歴史を感じた。

 次の日から、通勤で使っているリュックに『推し、燃ゆ』を入れて持ち歩き始めた。すぐに読んでしまうかと思ったけど、意外と時間がかかった。

 入稿した後は、Webカタログに載せるための本の紹介文を考えなくてはいけなかったし、noteや Twitterで宣伝するための記事も書きたかった。蕁麻疹の薬がちょうど切れたので、皮膚科にも行かなくてはならなかった。

 月曜日の診察終了間近の皮膚科は、すごく混んでいた。7畳ほどの待合室の椅子は全て埋まっていて、入り口の壁際まで患者が立って並んでいた。すごく時間がかかりそうだな、と思って、リュックに入っていた『推し、燃ゆ』を取り出して読み始めた。

 最初の4ページほどを目で追って、閉じた。全然頭に入らなかった。今は読めないのかも、と思ってじゃあ紹介文を考えてみるかとスマホを開いてみるが、何も浮かんでこなかった。患者が次々と呼ばれて診察室に入っていき、2分後には出てくるみたいなターンを永遠と待合室で眺めた。私は最後から3番目の患者だったようで、20分待ったのに診察は30秒で終わった。

 気を取り直して読み始めたのが木曜日だった。Webカタログの紹介文も、noteの紹介文も全て放出し終わって、もうやることがなかった。朝の通勤電車の中、やっと座れた席でぼんやりTwitterを眺めていたら、急に電車が止まった。

 電車の中は通勤客でひしめいていて、立っている乗客からじんわりと焦りや怒りが煮えたっているような気がした。こういう時にネットを見ていると落ち着かなくて、すごく時間が長く感じられるような気がして、自分を落ち着かせようと思ってピンクの本をリュックから取り出した。

 本を開いて、いつもより少し大きく感じられる字を目で追っていくと、車内のむんわりとした焦りから自分が隔絶されたようで、月曜日に読んでもわからなかった部分もスッと入ってくるように感じた。電車は10分弱停車した後、動き出した。

 会社の昼休みに少し読んで昼寝して、ジムの帰りの電車の中で少し読んで、今日金曜日、文化の日、文学フリマのポップなどをみそちゃんと作った帰りの電車の中でずっと読んで、寝る前に残りの20ページほど読んで、終わった。

 主人公の「あかり」が推しているアイドルが炎上騒ぎを起こしたことから始まるこの本は、「推し」を通してあかりが自分と向き合う物語だった。

 あかりは、推しに貢ぐためにうまくいかないバイトも頑張るし、推しを推すことで自分自身を肯定していた。推しがテレビやラジオで発した言葉を舐めるように全てメモをとり、推しを自分の言葉で解釈し、それをブログで発信した。ブログを通した他のファンとのコミュニケーションは、現実世界ではうまくいかないあかりを知らない人たちとの空間で、あかりは優しく流れるその空間に浸かりすぎることもなく、あかりとあかりの目を通した推しの姿が、淡々と描かれる。時に、あかりの思いが伝わらない家族の姿を引きずるようにしながら。

 私は、『推し、燃ゆ』を読まずに2年放置した理由と向き合わざるをえなかった。
 放置していたんじゃない、読めなかったのだと、物語の後半から、突きつけられているような気がした。

 あかりの推しに捧げる生活が、自分の高校時代と重なった。
 中学時代に自分が好きと言えるものや得意と思うことが何もなくて、とりあえず自分を維持する手段が勉強しかなくて、使命のように勉強机に向かっていたある日、彗星のようにMステに現れたセカオワは、その日を境に私の生活のほぼ全てとなった。

 新曲が出ればいち早くタワレコに行って予約用紙に詳細を書き込んで受付に出し、テレビに出れば予約して録画したものをDVDに焼いた。雑誌にインタビューが載ったと聞けば本屋に行き、過去のロッキングオンジャパンを手に入れるために、行く先々のブックオフの音楽コーナーを覗き、少しでもインタビューが載っていれば買って回った。
 ボーカルのFukaseが吐く言葉の全てが新鮮で、ピアノのSaoriが書くアメーバブログを何回も読み直した。夜眠れなくても、学校に行くのが少し嫌でも、自分が嫌いでも、彼らの言葉はそんな私の全てを肯定してくれるようで、私はセカオワが好きな自分が好きになった。私は大好きな彼らのことについて書くために、ブログを開設した。

 『推し、燃ゆ』のあかりの良い所は、「推し」を推し続けることに徹していることで、他のファンに対する感情がほぼ「無」なところだ。私は、少し違った。

 ブログと同時に作ったセカオワ用のTwitterのアカウントで、自分以外のセカオワが好きな人たちを目にするようになった。そこには私と同じくらいの年齢で、ツアーの何日間もライブに行くような人を見かけた。

 高校生当時はバイトが原則禁止されていて、お年玉やお小遣いからライブ費を出していた私は、そんなにたくさん行けなかった。何日もライブに行って、彼らと同じ空間にいるファンの人たちが、羨ましかった。

 私の方がセカオワが好きなのに、どうしてあなたは「自分の方がセカオワが好き」みたいな顔をするの。

 タイムラインに上がったファンの自撮りや集合写真を見て、画面の前で苛立ちながらスクロールした。セカオワを好きになっても、根っこのところで燻り続けている自己嫌悪が、同じものを好きなはずの人たちに向かっていた。特にファンの仲間を作ることもなく、そのアカウントは受験勉強と共にログアウトしたまま、入れなくなった。

 大学生になっても、私は相変わらずファンブログをやっていた。更新回数は少なくなったけれど、ライブに行けば必ずブログ用の写真(ライブの写真撮影が可)を撮り、セットリストの順にライブレポートを詳細に書くようになった。それは6000字を超えることが常で、ライブが終わったその日から、1週間かけて通学時間などで書き上げ、更新した。

 セカオワ用のTwitterのファンアカウントをもう一度作って、最初からやり直した。特に呟くこともなく、メンバーの呟きや、公式のお知らせを見ることにほぼ専念していた。

 だけどある時から、遭遇した、だとか、認知されていた、だとか、ライブを全通した、だとかのファンのツイートが回ってくるようになった。すごいな、と思う一方で、その人たちを憎いと思う自分もいた。

 大学生にもなれば、わかっていた。人それぞれにセカオワを好きな理由があって、楽しげな投稿の裏には壮絶な過去があって、それを救ってくれたのがセカオワだ、という人がごまんといることも。だけど、憎かった。

 私の方が好きなのに、私からセカオワを取ったら何も残らないのに。
 あなたたちは他にも依存先があるのに。私からセカオワを取らないでよ。

 そういう人たちが少し過激なことを言うと、すぐに界隈で炎上した。私はそれにいいねをすることもなく、ただ流れてくる荒れたタイムラインを眺めた。その人たちが、一時的に鍵アカウントにしたことも、知っていた。

 私は、そろそろ気づいていた。私は、セカオワに自分がすごくセカオワが好きだと、知ってほしい、と思っていることに。彼らに見て欲しくてブログを書いているわけではないのに、心のどこかで、見てもらえたらな、と思っていることに。

 すごく意地汚い。穢らわしい。気づいていたけど、ずっとどこにも吐かず隠してきた気持ちを、『推し、燃ゆ』は思い出させた。推しへの承認欲求がないあかりの姿は、私にはとても綺麗に感じられた。たとえ推しを推している自分が好きでも、それはどんなに磨いても綻びの出ない素直な「好き」だ。私の、自己嫌悪が無いまぜになった「好き」よりも、純度が高い。

 
 こうまで書いているものの、今年の下半期に開催されているセカオワのツアーには、全て落ちた。だけど、それは完全に自分の努力不足で、私は抽選のチャンスを幾度となく忘れた。1回だけギリギリ思い出して申し込んで、外れて、そのままだ。リセールも、一般販売も、いつ行われるのか全く調べもしていなかった。

 私には目下考えることがあった。文学フリマだ。推しが作った世界に客として行くのではなく、彼ら同じく、作り上げる側になった。彼らから学んだことや得たことが血や肉に変わり、依存ではなくいつでも戻れる原点のようになり、自分で自分を維持できることの喜びすら感じていた。

 同人誌のために小説を書くのは苦しく、楽しくもあった。入稿して、来週には本が届き、完成品を見ればきっと感激するだろう。実際に売り場で売れたら、嬉しいだろう。

 だが、『推し、燃ゆ』を読む前に感じていたそのワクワク感は、本を読み終わり、作者のプロフィールを見たときに、一気に萎んでいくのを感じた。


 昔、誰かのnoteで、綿谷りさが芥川賞を取ったことの衝撃を書いた文章を読んだ。綿谷りさは、その人と近しい年齢だったのだろう。「ただ自分が好きで文を書いています」とは言い切れないnoteの世界で、同年代が賞を取ることにどこかむず痒い何かを感じることに、共感する人は少なくないだろう。

 どす黒く、どこにぶつけた所でしょうがなく、どうしようもなく、吐いてしまいそうな感情を抑えきれず、ベッドから出てこんなことを書いている。外に見える夜の闇に葬るように書いた言葉の裏で、『推し、燃ゆ』に出てきた数々の描写が美しくて、改めて本屋に並んでいる文庫本を買いに走ってしまいそうだ。

 


 

 

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