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進学校を中退したらどんな大人になったか④

高校一年生を修了し、私は進学校を中退した。
修了式を終え、クラスメイトたちが続々と新しい教室へ向かう中、1人だけ次のクラスがないのが悲しかった。

勉強やバドミントンをここまでさせてくれた親に申し訳なかったし、友達が大好きだったのでもっと一緒に過ごしたかった。自分は当然のように、国立大学か県内の私立大学に進学すると思っていた。

私は県内の通信制高校に編入した。
そこでは自分で時間割を組み、学校から出されたレポートを期限までに提出する。その仕組みは大学のようだった。
平日は仕事などをしている人が多く、週末だけ登校して授業を受けた。
県内各地から生徒が集まってきているので、学区ごとにグループが分かれており、学校ではなく学区内のコミュニティセンターでの課外授業などもあった。

通信制高校には、さまざまな事情を抱えた人がたくさんいた。不登校だった人、中卒で働いていたが高校卒業資格がほしい人、子連れのママや初老の男性までいた。制服はなく、みんなそれぞれ好きな格好をしていたのも新鮮だった。

正直、今までの私はとても視野が狭かった。
勉強して、いい大学に行く。これしか道はないと思っていた。しかし、世の中には無限の選択肢があって、何歳だろうと子どもがいようとどんな仕事をしていようと、学びたい人はいつでも学べるのだ。

平日は学校がないので、私は個人経営の焼肉屋さんでバイトを始めた。夫婦で切り盛りしてる人気店で、とてもよくしていただいた。

高校2年生になってすぐ、元夫Aとの交際が始まった。これまで彼氏はいたが、手を1回繋いだだけで約2ヶ月の交際だったので、ちゃんと付き合ったのはAが初めてだった。
B'zが好きになったのも、Aの影響だった。2人でよくライブを観に行った。
Aは、私のバイトが終わるのをいつも店の前で待っていたので、店主の奥さんから「ストーカー」と呼ばれていた。

その頃、母が婚活を始めたので、1ヶ月など長期で家を空けることが多くなっていた。姉は成人間近でもう家を出ていたので、年老いた母方の祖父母と犬2匹と過ごすことが多かった。
家事を一通り覚えたのも必要に迫られてのことだった。

↓母の婚活話はこちら

田舎に暮らしていたので近所にスーパーはなく、バイト帰りにスーパーに寄って買い物して帰ることが多々あった。自転車の振動で卵が割れないか不安で、いつもマフラーでぐるぐる巻きにした。
バイトは主にランチの時間帯だったけど、たまに夜も入っていた。だれもいない田舎道で自転車を走らせながら、夜空を見上げるのが好きだった。

学校もバイトも恋愛も充実していて、私はずいぶんと元気になっていた。もう精神科に行くこともなくなっていた。

高校卒業後は、母と共に名古屋に引っ越し、養父との3人の生活が始まった。
Aとは遠距離になってしまったが、後に彼は私を追いかけ、浪人後に中部地方の国立大学に入学する。

短大生活はとても楽しかった。
ここで一生の親友が出来た。
養父は私にオーストラリアの短期留学もさせてくれた。
元々勤勉だった私は、学年で一番多くの資格を取って表彰された。それをきっかけに、名古屋の企業に内定をいただいた。
働きやすくて人間関係に恵まれ、やりたいことにたくさん挑戦させてもらえた大好きな会社だった。

「進学校を卒業し、名のある大学に行って大企業に就職する」ような未来はなかったが、あのまま通っていても得られなかった未来があった。

私は今、生活をよりよくするために毎日を工夫して楽しむ主婦になった。
高校を中退しても、勉強する習慣は今もなお続いている。妊娠中には医療事務の資格を取得した。

よく、後悔する時は、選ばなかった方を現状よりいい方だと考えてしまう。しかし実際は、未来がどうなっていたかなんて誰にもわからない。誰にも経験しようがない。今より良かったかもしれないし、悪かったかもしれない。

芸人の小籔千豊が「人生は映画だ」と言っていた。30代が始まったばかりの私の人生なんて、映画でいえばまだまだ物語の序盤だろう。

まだ人生半ばということを前提にしても、私はこれで良かった。負け惜しみに見える人もいるかもしれないが、私の人生で、私がいいと言っているのらそれでいいんだろう。

今もなお、精神疾患には苦しめられているが、可愛い息子と優しい夫に恵まれて、私は幸せだ。

この先の人生、どんなに躓いても、きっといつか事態は好転すると思って生きていく。

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