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私は何者か、346


畑のほうれん草の間引き菜と卵で菜種卵焼き。高野豆腐の含め煮。鮭ときのこのホイル焼き。麒麟一番搾りと金麦。
早めのお風呂でゆっくり温まる。まだまだ夜は長い。
ビールのお供に柿の種。コリコリと弾む。

黄金週間、ありがと、バイバイね。

週末の家。

いろんな喜びも哀しみも、いつも私は口語たるらん、文語たるらん、こころの言葉で間欠泉みたいに話しだす。それを聞いてくれる人よ。そうでもしなければ、眉間の皺、チグリス川、ユーフラテス川のように深く刻まれてしまう。深く遠い出来事を、少しずつ目尻を下げて、さらに深く強く思うとき、願うことの普遍さを呪い、求めることのあまりの普通さに、私よ、いまさら恥ずかしがることなど許されるものではない。許されているなかではあるが。

降り続く雨は何を教えるものか。
足を地につけて。考えよ。屋根の下、目を閉じても、冷たい雫はその頬を伝うであろうに。

眼裏の黄金色とか。いま、思い出したよ。小麦の熟れた色か。
ゴッホのキャンバスの、見えぬ風に吹かれ、思い思いに揺れる麦の畑。烏もいるな。鳥はいい。ゴッホが麦の穂にチクチククシャクシャされながら歩く様を想像する。そんなに大股ではなく、かといって、ちょこちょこ走りでもない。後をついてゆく。想像の絵の中へ。臆病さを滲ませながら、気付かぬふりで、とっくにばれているのに、それでも、歩く。その足取りは、夢のなかで、そのままのものをそこに留めるのであろう。どんなふうに見えるかは、そんなの、みんなが同じはずなどない。

普通にあることのこれほどまでに、困難であることか。それは付加価値などと四文字のうまく言い表せそうな言葉で括るのは申し訳ない。そんなのが、あるかも知れぬ。色とりどりの新緑を伝う雨粒のひとつよりもさらに小さなものとしての自分を持て余す。モテアマス。


入ってはいけません。


喋ってはいけません。


狡はしていいです。

えっ、そんなことはないだろう。


わたしは何者か。




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