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人と比べて自分の劣等感を満たす残念さ

充分な教育を受けずに育てられた母親は、子供にはそうさせまいと必死になり、必死になりすぎて執着し、『教育ママ』をとっくの昔に通り越した行為を繰り返していました。

物心つく前から英才教育をしたのはもちろん、3歳からは思いつく限りの習い事をしたと思います。
父親の反対を押し切り、小学校は受験して私立へ入学。(いわゆるお受験
合格しなかったらどうなっていたのかなと思うと、ぞっとします。

母親は、良い小学校に入学させることができて、鼻高々でした。
私に対して良かったねとどのくらい思っていたかは謎ですが(少なくとも私には伝わってなかった)、
あの人にとって、自分が通りたかった道を娘に実現させたことで、満足のいく結果だったのだと思います。

それは別によいのですが、近しい人の子供と私を比較することはやめてほしかったと思います。

母親は、習い事で一緒の子や私のお友達が、私と同じ学校に受験で落ちたことについて、何度も何度も口にしてバカにしていました

私の遊び友達だろうが何だろうがそんなことは気にもせず、ニヤニヤしながら私に質問してきます。
「あの子、どうして落ちたんだろうね~?」
「なんか面接で変なこと言ったんじゃないの?」
「あんた何か聞いてない?」

・・・私は同じ学校に行けなくて悲しいというのに。

これ、子供に聞くことですか?
子供は子供なりに、そういう違和感感じとりますし、
時を経てあれ何だったんだろうと、すごいストレスになります。

子供だから分からないだろうと思って、
無意識に子供に変なことを質問している方がいたら、
一度ふみとどまって子供の気持ちを考えてみてほしいなと思います。

優しい子に育ってほしいのであれば、
思いやりを親から子に向けようと努力する必要はあるのでは
と。

母親は、娘の大切な人のことを娘の前で笑うような歪んだ人間です。
少なくとも私は、小学校に落ちただけでお友達の人生が終わったとか、
その子の何かがおかしいだとか、そんなことは思いません。

よい環境に身を置けたことは感謝


補足ですが、私が受験させられた小学校自体は良い環境だったので、
受験をさせる選択をし、この学校に通えたことに感謝はしています。

でも、残念ながら心が温かくなるような良い思い出を作ることはできませんでした。
どんなによい環境があろうとも、家に帰ればほぼ常に緊張状態、拘束状態の毎日で心の居場所がなく、常に違和感・ストレスがあり、自分らしさというものが何たるかが分からないままの生活だったからです。

人生は、『環境』と『人』との関わり合いの中で成長していきます。

どちらかではなく、どちらもあった方がいい。

置かれた環境というものの影響の大きさとともに、
決して、良いところに入学させれば万事OKではないのだということを、あ身をもって知ることができました。


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