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具体美術と制限付きの自由について。

現在、兵庫県立美術館で『今こそGUTAI 』展が開催されている。(会期は2021年2月7日まで。投稿時点では会期終了)
GUTAI=具体というのは、吉原治良をリーダーにして結成された戦後前衛美術のグループの名称である。兵庫県の芦屋市で結成された集団のため、大阪・兵庫をはじめとした関西圏では美術館のコレクション展などでも割と目にする機会も多い。しかしながら、知名度自体は、地域は関係なくあまり高くないように思う。
具体(というか現代美術)という存在が、美術館の外で、例えばTwitterで話題になって取り上げられたり、家族との会話の話題や通勤中の街の景色に現れたりすることはない。であるから、とても日常に身近に存在しているとは言えない。
しかし、僕が住んでいる地域が関西圏であることも関係しているのだろうか、こと具体に関しては何か思いを寄せていて、地元のような、いや地元よりはもう少し遠い、あまり会わない親戚のような、再会した時にどこか懐かしさを感じる位置に存在している。
その久々の再会が『今こそGUTAI』展だった。この展覧会を通じて、その懐かしさを感じたと共に僕たちの創造について考えることにもなった。以下はそれらについてのいくつかの話を展開している。

まずは県立美術館に向かう。検温やチケット購入を経て、おなじみ安藤忠雄建築の無機質なコンクリートの階段を登ると、頂上部分には横断幕が掛かっているのが見えた。そこには機関紙『具体』が発刊された際に掲載された吉原治良によるテキストの一部があった。

「現代の美術は厳しい現代を生き抜いていく人々の最も解放された自由の場であり、自由の場に於ける想像こそ人類の進展に寄与し得ることである」

まず、この文章にお出迎えされて、さらに奥に進んで行く、入り組んで迷路のようになった通路を進み(これもまた安藤忠雄建築の特徴の一つである)ようやく展示室にたどり着いた。
そこには相変わらず「自由の場に於ける想像」に相応しい作品が並んでいた。無題や作品といったタイトル。不在のキャプション。ヘンテコな作品群。
これが初めての体験だったらどうだろうか。こどもが描いた落書きのような絵を前にしてとっとと帰ろうなどと思うかもしれない。この展示室を見るたびにそういうことをまず考える。
僕も当初、その自由さに「具体はあわない」と考えていた。作品の可笑しさに加えて展示室にある情報は非常に限られたものだし、キャプションや学芸員による解説もあえて伏せられているようだ。その上で、展示室を歩かなくてはならず、段々と足が疲れていくことに苦痛すら感じていた。
しかし、これは何も具体に限った話ではないが、何度も作品を見ているうちにその作品に対する感情や考え方は変化していくわけで、やがてその面白さに惹かれるようになっていった。僕の場合、何故これが一部のコミュニティや空間では価値を持つのかを考えることで解き明かされるアレコレに、引き寄せられた感じが強い。
慣れないうちは、展示室というホワイトキューブはどこか緊張の糸が張り詰めている感じだ。空間側に完全に主導権を握られているような居心地の悪さも感じる。そこでは自分はアウェイなものだ。
慣れてしまえば、それはサッカーを全く知らないのにサッカー部に入部したみたいなことであって、勿論ルールを知らなければサッカーの面白さはわからず、また、試合においては足手まといな存在だが、面白さを知っていれば熱狂できる。という単純なことに気づけるのだが、最初はそうはいかない。アートを体で感じろとかいうことになるが、結局それでは面白さは持続しない。だからと言ってインタラクションとかインスタ映えとかでもない。もっとマゾ的にしんどい気持ちを抱えつつ、学びと実戦を繰り返すことで、思考はいつの間に変容されている。そういう発見があるとやはり面白く感じられるようになる。
注文の多い料理店に放り込まれても、猫の思惑を理解するまで頑張るといった感じだろうか。とにかくこの感覚を掴んだのも具体という存在があったからというように思う。

であるから、とにかく展示室で絵を見てばかりもいられず、僕はまずは「具体美術宣言」に目を通した。1956年『芸術新潮12月号』に掲載された宣言文だ。

「物質は精神に同化しない、精神は物質を従属させない。物質は物質のままでその特質を露呈したとき物語りをはじめ、絶叫さえする
藝術は創造の場ではあるけれど、未だかつて精神は物質を創造したためしはない。精神は精神を創造したに過ぎない。精神はあらゆる時代に藝術上の生命を産み出した。しかし、その生命は変貌を遂げ死滅してしまう」

宣言の一部、かなり冒頭部分である。誤読しているという恐怖心も抱えながら書いているが、この部分だけを抜き出してみてもとても面白い指摘だと考えられないだろうか。
確かに我々は何か作るときに、身の回りにあるあらゆる物質を自分の思想やアイデアを反映させるために利用している。上の宣言は美術史的なものに対する言及かもしれないが、単純に考えても、あらゆる「もの」は我々が何かを考えた後に、その考えのために利用される存在である。では、そこから脱却をしようとすればどうするか。それは宣言の通りであるが「物質は物質のままでその特性を露呈」させる必要があるのだろう。
具体的にはどのようなことを指すのだろうか。これは具体宣言に記載があったものから少し膨らませて考えたことだが、人間が作った「建築物」に対する自然が生み出した「廃墟」のようなものだと考えることができるかもしれない。建築物がある理由から廃墟になるとき、この工作物の何が変わったのかと問われると解答に少し悩むかもしれない。外的要因として人が消えたであるとか、メンテナンスをされなくなったということがあげられるだろうが、その工作物を構成する木材やコンクリートといった物質の量的な変化などはない。
しかし、我々は使われずに放置された建築物を敢えて「廃墟」と別の名前で呼ぶくらいには特別な感情を抱いている。この、人間が作りだした「建築物」と自然が生み出した「廃墟」の違いに着目するとき、物質の質的な変化というそれそのものをまずは見つめなくてはならない。部分的には埃にまみれた壁や朽ちた柱であり、最終的にはそれらによって構成される空間を見つめる。そして、それを考えることは物質の特性がいかにして露呈されているかを考えることにつながり、またその状態が如何に我々を惹きつけ、(宣言の言葉を借りると)精神に服従された状態から脱却しているか知るキッカケになる。

この「廃墟」の話を踏まえると、「物質は物質のままでその特性を露呈」ということを意識したうえでの創造は、物質に振り回されるというか、物質の魅力を引き出すまで、こちら(作り手)が付き合わされる感じになっていくのだと思う。
その物質に最も適した状態になるまで様々な方法を試し、ある種の正解を導き出すための役割を作家が担っているわけだ。しかし、このある種の正解を導き出すということは、まさに自由な視点によって導き出されるのであって、逆にその視点がなければ物質の特性を見出せない。具体の作品のよく分からなさというのは、そういった性質を持つからこそなのではないだろうか。

そこには僕や僕らが持っている「もの」を作る・生み出すことへの考え方や在り方とは違った新たな視点が感じられる。少なくとも僕はそうだ。
「物質の特性」という未知があると信じてそこに向かうことで「自由」を見出していくような制作への考えはとても新鮮に聞こえる。そして同時に人生をかけて、その姿勢で作り続けることの苦労を想像してしまう。
それはつまり、何十年と未知に対する大衆の無理解を受け止めながら、その表現が物質にとって輝いている、或いは前進するための可能性になるという「自由」を自分だけが信じられる状況に身を置くということではないか。そこに生活もつきまとう。そのようなプレッシャーを背負い続けるということは、やはり恐ろしい。
具体は前衛美術のグループだというが、一人よりはある程度のチームで同じ志を持った人間と切磋琢磨したりやり取りを重ねないことには、メンタルが維持できないのではないかと思う。しかし、その作品のジャッジメントをしていたのは吉原治良というのだから、彼にも押しつぶされる瞬間はなかったのだろうか。人間の精神の外にある状態こそ自由の在り方かもしれない。だけど、それは怖いことだとも思う。もしかしたら、もっとラディカルに自分を疑うことなど一つもなくただひたすらに突き進んでいたのかもしれないが。

そうなってくると逆に我々の「自由」とは、どこか制限つきの自由だと考えられる。
ものを作るということは、普段見ているものや聞いているものに影響され、歴史を学び、編み出された法則やパターンを用いて、過去への応答になるということがほとんどではないだろうか。
商業作品なら尚更、数が稼げること、また大衆の好みに寄せることにコミットしていく訳だから、そういう傾向はより強くなるだろう。加えて、広告モデルのプラットフォームが作品発表の場として力を持ち、インディーズや個人に対しても数が影響していく状況がより加速している。そうなると、数を集められる=求められているものに応えていくスタンスが強くならざるを得ない。このように社会との関わり、経験や環境によって、表現には自然と制限が加わっていく。しかし僕たちがそのことに自覚的であることもあまりないだろう。
決してそれが悪いことであるという主張をしているわけではない。どちらかというと僕は制限付きの自由、つまり「精神は精神を創造する」ことで面白いものが作られると信じている人間である。素晴らしい作品にもたくさん巡り合ってきた。このテキストにしても、“精神は物質を従属させない”という理念を知ることにより、具体の作品の背景にある、作家や組織の精神に対して評価する。というある種の矛盾を抱え、言ってしまえば精神が精神を創造しているように思える。(これはこちらの鑑賞の問題であるが。)

このように具体の在り方が我々にとっての創造に対する応答として活きてくるとき、その特異さがより感じられるようになるのではいかと思う。その特異さこそがやはり「自由な創造について」を考えさせられるし、非常に重要なピースになるのではないか。
繰り返しになるが具体の作品群には「制限から解き放たれている」という性質がある。むしろそれを強いているかのようにも思える。それによって、真の自由について考えを展開させていくことも出来る。しかしながら、真の自由のようなことは僕にはちょっと言える勇気もない訳だから、ここははぐらかしておく。
ただ言えるのは、この精神の外を探究しようという眼差しと実験の数々によって、閉じていた世界は広がっていくことということだ。しかし、それは自由が拡張されるという感覚とは少し違う。過去には自分が持っていたにも関わらず、いつの間にか閉ざしてしまったものという感覚が最も近い。それが果たして何を指すのかというと、ここまでの流れを汲めば、簡単に理解できるかもしれない。
それは子供の頃に好き勝手に何かを描いていたり作っていた感覚だ。僕の記憶でいうと、例えば幼稚園で砂場で砂の塊を拾ってそれを削り出していたようなものが近いだろうか。具体の作品たちだってどこかそんな感じがある。そして、僕が懐かしさを感じる要因はここに接続しているのかもしれない。
非常にありふれた言葉になるが、大人よりも子供の方が縛られるものがなく自由である。それは社会性や知識の量、社会的立場を考えても明らかだろう。また、先ほどから何度か繰り返すように、僕たちは縛られた上での創造が本当に素晴らしいことをよく理解しているし、自由というのは周囲に理解されることは極めて難しい。時には嫌悪の対象となる。「よく分からない」と指摘されたときには最後だろう。
だから、僕たちはいつの間にかそれを忘れてしまうけれど、(もしかしたら嫌った上で忘れているかもしれない)こうした具体との巡り合いとその考察によって、それは実は僕たちが簡単に捨てるわけにはいかない、嫌うにしてはちょっと勿体無い存在だと思えるのではないだろうか。いや、むしろ忘れてしまってもいいのだろう。そこに美術館の意義を見いだせる。忘れものを取りに行ける場所がある。それだってとても重要で恵まれていることではないだろうか。


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