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8. 死生観を持っていたほうがいい理由

納棺師の木村光希(きむら こうき)です。
だれかの大切な人である故人さまと、大切な家族を亡くしたばかりであるご遺族の、最後の「おくられる場」「おくる場」をつくることをなりわいとしています。

死生観を持っていたほうがいい理由

死生観とは「自分なりに生と死を捉え直して導いた解」です。
「最期まで、どう生きるか」とも言えるでしょう。

この大切な価値観について、死を目前にして考えはじめるのでは遅いとぼくは思っています。
決して付け焼き刃で見つけられるものではないからこそ、大切なひとを亡くす前から、元気なうちから、つまり死を遠いものに感じているときから、すべてのひとが持っておいたほうがいいのです。

とはいえ、いまはまだまだその考えは一般的ではないと理解してはいます。

たとえばぼくは、
「遺体を触った手で奥さまや娘さんに触ることに、抵抗はないのですか」
と聞かれることが少なくありません。

この抵抗感はまったくないのですが、むしろ、ぼくはこの「抵抗はありませんか」という言葉が気になってしまいます。

日本人が、死にまつわるものから目を背けていることがあらわれている気がしてならないのです。

とくに日本人は、死について考えることを避けると言われています。
実際みなさんも、ご家族や友人と「どのように死にたいか」「自分が死んだ後はどうしてほしい」といった話をすることを、どこか「縁起が悪い」と感じるのではないでしょうか。
多くのひとにとって、死とは穢れであり、触れてはならないものなのです。

「生の場」と「死の場」の境界線を引く意識。
死についてなるべく考えない、話題に出さないようにする暗黙のルールがあるのです。

しかし、本来は死とは生の延長線上にあるものです。
だから、死生観を得るためにも、「どう生きるか」を考えるためにも、まずは自分の死を直視しなければならないのです。

ぼくは妻にもよく、
「明日、家族のだれかが死ぬかもしれないんだから」
「娘がいるこの幸せは当たり前じゃないんだよ」

と伝えています。
……いま「そんな夫、ちょっとウザいな」と思った方もいるかもしれません(笑)。

それでも、10年以上きわめて「死」に近いところで働いている——もっと言えば、納棺師であった父の背中を子どもの頃から見ていて、死がとても身近なものだったぼくとしては、「自分だけは/自分の子どもだけは大丈夫」とはとても思えないんです。

子どもが朝、むくっと起きるだけで最高に幸せだなと思いますから。

死生観を持つとどうなるのか、ピンときづらいかもしれません。
でも、こうしたちいさな幸せの感覚を得られるだけでも、死とはなにか、生きるとはなにか考え、自分の死生観を磨く価値があるのではないかと思います。

繰り返しになりますが、まずは死を「他人のもの」「いつ来るかわからないもの」だと拒絶せず、「自分のこと」「いつ来てもおかしくないもの」だと受け入れるところからはじめてみましょう
 そのうえで「どう生きるか」、考えてみてほしいと思います。

つづく


※本記事は、『だれかの記憶に生きていく』(朝日出版)から内容を一部編集して抜粋し、掲載しています。

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