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9. ご遺体との対話からはじまる

納棺師の木村光希(きむら こうき)です。
だれかの大切な人である故人さまと、大切な家族を亡くしたばかりであるご遺族の、最後の「おくられる場」「おくる場」をつくることをなりわいとしています。

ご遺体との対話から始まる

「はじめまして、よろしくお願いします」

納棺師の仕事は、故人さまにごあいさつするところからはじまります。

まずは、手をあわせてごあいさつしてからお身体に触れる。
そしてご遺体の様子を見ながら、こころの中で声をかけ対話していくのです。
……といっても、これはマニュアルにはありません。あくまでぼく自身が自然とはじめていたことでした。

「あ、お孫さん来てくださいましたよ」
「すてきな手ですね。どんなお仕事をされていたんですか」
「奥さま、いつか立ち直ってくださるといいですね」

まるで生きている方とおしゃべりするかのように、語りかけていきます。

腐敗の進行がはやいなと思ったときは、

「お父さん、もうちょっと頑張ってください。あしたの通夜までは、踏ん張ってください。ぼくも全力でがんばりますから!」

と元気づけるように声をかけます。
次の日、ドキドキしながらお父さんの姿を見るとほぼ変化が見られず、思わず「がんばりましたね!」とこころの中でガチッと握手してしまったこともあります。

逆に、「いま、故人さまはこんなふうにおっしゃっているだろうな」と感じることもあります。
遺され、落ち込んでいる旦那さまのことを心配されているな、とか、「ちゃんときれいしてね」と言っているな、とか。

もちろんぼくの妄想にすぎないのですが、どこかほんとうにそう感じる瞬間があるんです。
目の前にいらっしゃる方と関係性をつくっていくのは、生きている人間と同じですね。

このように、はじめのごあいさつから納棺、葬儀、火葬まで、ぼくは故人さまとずっと対話しつづけている気がします。
もし、仕事中のぼくの頭の中を覗かれたら「あいつ大丈夫か?」と思われるかもしれません。

ぼく自身もちょっと不思議なんです。
だいたい、ご遺体に話しかけていることに自覚的になったのは、納棺師としてはじめて出演させていただいたNHKのドキュメンタリー番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』の撮影のときでしたから。

プロデューサーの方に「いま、なにを考えていたんですか?」と聞かれて、「そういえば……」とこころの中で交わしていた会話を思い出す。
「もしかして自分ってスピリチュアルな人間だったのか?」と首をひねる。
こればかりは、いまだにうまく説明できずにいます。

ただ、ぼくにとっては、ご遺体である前に「故人さま」。
あくまでもひとりの人間なんですね。

これは性別や年齢、死因にかかわらず、どんなご遺体でも同じです。
いわゆる「ホトケ様」という感覚ともちがいます。尊厳はありながらも、彼らは神聖で遠い存在ではないのです。
生きている方々と同じ「いち個人」として、相対しています。

「いち個人」をもっと具体的に表現すると……そうですね、「舞台の主役」と接するような感覚かもしれません。

ぼくは演出やメイク、衣装やマッサージなど、裏方のすべてを担っている黒子(くろこ)の役割。
主役を輝かせ、いい舞台にするためにはいくらでも汗をかく。労を惜しまない。
そんな気持ちで納棺をおこなっています。

あるいは、故人さまに対しては「師匠」のように感じることもあります。
たとえちいさい子どもであっても、尊敬すべき師匠です。

だって彼らは、まごうことなき「自分の人生をまっとうされたひと」
そして、「遺されたひとたちに大切なことを教えてくれる存在」なのですから。 

ぼくが納棺師の仕事に強いやりがいを感じているのも、社会のお役に立てていると実感できているのも、すべて「主役」であり「師匠」である故人さまのおかげです。

彼らとじっくり対話させていただきながら学んできたことがあるからこそ、なのです。

ご遺体に触れるのは、こわくない

故人さまにごあいさつをしたら、話しかけながらも状況把握に入ります。

表情を見て、血色を見て、体におおきな傷がないか確認する。
そして出血や壊死、点滴痕の有無や体温の下がり方、ドライアイスの効きや死後硬直の様子、はたまた寝癖やお顔の状態など全身の状態を細かくチェックしていきます。

これは「故人さま」のひと言ではくくれないくらい、千差万別。
ひとりとして同じ状態はありません。

そのうえで、ご遺体の状態が悪くならないようにさまざまな処置を講じたり、傷みのある場合はできるかぎり修復したりするのもぼくの仕事です。

なるべく生前に近いお姿をご遺族のみなさんに見ていただけるように。「変わり果てた姿」を目にし、喪失によるかなしみが必要以上に深くならないように、です。 

こう語ると、「ご遺体に触れることは怖くないのか、抵抗はないのか」という質問をいただくこともあります。

これについては、「怖さも抵抗もない」と即答できます。
ただ、それは決してぼくが強かったり勇敢だったりするからではありません。むしろ小さいころは夜中にトイレに行けない少年でした。

ひとりで家に帰るときは大声を出しながら家中の電気をつけていましたし、いまもホラー映画は大嫌い。
夜寝ているときにだれかに足をつかまれるんじゃないかと怖くて、中学2年生まで母親と寝ていました。
いまも変わらず臆病ですから、両親にも「よく納棺師になろうと思ったな」と笑われます。

でも、不思議なことに、納棺のときにはまったく平気なんです。

駆け出しのころはただただ必死で「怖い」なんて思う余裕もありませんでしたし(失敗してしまうことへの緊張はありましたが)、いまのスタイルに落ち着いてからはあくまで「主役」を輝かせるための黒子、という意識があるからでしょう。
自分が「納棺師」という名前を背負っているかぎり、きっとこの気持ちは変わらないと思います。

なにより、故人さまとはいえ、やっぱりぼくにとっては「いち個人」。
生きている方と接するのとなんら変わりはないのです。

 つづく


※本記事は、『だれかの記憶に生きていく』(朝日出版)から内容を一部編集して抜粋し、掲載しています。

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