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アニオタ歴20年の洞察家がアニメ「進撃の巨人」最終回で感じたこと

こんにちは。おかゆです。
日頃は心理学や自己分析ツールを用いた自己理解の対話セッションを行っています。

実は、歴が長いアニオタです。

今回はアニメ「進撃の巨人」が完結したため、その最終回を見て感じたことを綴っていきます。多大に作品の内容に触れていきますので、ネタバレ回避したい方は視聴後にご閲覧ください。
*ルルーシュとNARUTOと文ストのネタバレも入ってるので、そちらもお気をつけください。


やっと、ファイナルシーズンが終わった

進撃の巨人はアニメから入り、予想外のストーリー展開と人間の奥深さや闇を感じる雰囲気に惹かれました。グロテスクなシーンは苦手ですが進撃の巨人はテンポが良かったのでササっと見過ぎないようにしていました。

アニメの途中から待ちきれなくなり、原作を読むようになり、2021年6月に最終巻が発売された直後に購読し、私の中で作品が完結しました。
当時も泣きながら読んだ記憶。

それからは
「あ、アニメで最終章をやるんだ!」
「地ならしが始まった…けど今回のシーズン終わった!?完結はいつ…?」
いつ終わるんだろう?と思っていました。

そしてついに、先日2023年11月4日にファイナルシーズン完結編が放送されました。

SNSを見ていると色んな告知があり、特に目に留まったのが、原作者・諌山先生のこちら。

「ネームを描き直す…だと…!?」

原作完読者としては、どのような変化が起こるのか一抹の緊張が走りました。結末までは変わらないだろうけれど、どんな内容になるのか…?

これは僕たちがやったことだ

まずは率直な感想から。

エレンだけの罪ではない。
これは僕たちがやったこと 
であると。
そのアルミンの台詞に心を打たれました。

「エレンに外の世界の本を見せてたのは、僕だ。
誰もいない自由な世界をエレンに想像させたのは、僕だ。」

「ありがとう、エレン。
僕に壁の向こう側を、この景色を見せてくれて。
これは僕たちがやったことだ。
だから、これからはずっと、一緒だね」

エレンは、世界を平らにしてみたかった、俺は自由の奴隷だ、と語った。

アルミンは、この惨状は自分が外の世界をエレンに示したことがきっかけであると、寄り添いました。

原作では、殺戮者になったエレンが人類の共通敵であり、アルミンが人類を救った英雄になる、という表現になっていました。

アニメで描き直されたことにより、原作の
"わたしが悪。あなたは英雄"
ではなく
"わたしたちがやったこと"
と見えました。

世界は、わたしたちだ

個人的な解釈になりますが、
"わたしたちがやったこと"
の中に、エレンとアルミンの二人だけでなく、世界も含まれていると思いました。

エレンは平らにしたかった、といいつつも、世界の8割を殺戮することに対して葛藤がありました。壁の外側の世界で出会った少年に「ごめん」と涙しながら謝るシーンにも表れています。

彼はなぜその行動に出たのか?

憎しみの歴史によってつくられた世界

ひとつは、憎しみや戦いの歴史があったためではないか、と私は思いました。エルディア人とマーレ人の戦いは、巨人の力が原因ではあります。そして、巨人の力を持つという具体的な人種の違いよりも奥深く、始祖ユミルの時代から奴隷制度といった差別や争いは存在しました。

争いの時代にあったからこそ、巨人の力は兵器として用いられたのではないでしょうか。平和な時代であれば、なにかしらの肉体労働や自然災害からの保護者として働いていたかもしれません。

話を戻すと、エレンの行動は
世界から争いをなくすために人類の共通敵に自分がなる。
争いの種をエレンの世代まで持ち越したのは今の大人たちであるし、先人たちが起こしおさめきれなかったことであると思うのです。

進撃の巨人のみでなく、他の作品においても「世界から争いをなくすために残虐と破壊を尽くし自身が人類の共通敵になる」という平和の作り方をみかけます。

コードギアス反逆のルルーシュの主人公のルルーシュが、皇帝になったあと暴君として振る舞い、ゼロに殺させたように。

NARUTOのサスケが、五影を殺してから自分が火影になり自分一人が闇を背負うといったように。

文豪ストレイドッグスの福地が、世界平和を願い自ら悪となり、最後に殺させたように。

このように描かれるのは、私たちが生きている世界自体が多くの争いで溢れ、大きなインパクトがない限り収拾がつかないからではないでしょうか。

今、世界では紛争が起きています。身近なところで言えば、親族との関りや会社同士の関係性などでも小さな諍いがあることでしょう。それは、先人たちがつくりあげてきものですよね。

それを全て
「そんなの過去の人達がやったことだから、私達は関係ないよ」
と言えたらシンプルですが、そう単純にはいかないのが、人類の心や社会性というものです。

身内を守る、という行動は生命の種の保存としてごく自然な行動です。その形が、あまりにも残虐な歴史を辿ってきたのが進撃の巨人の世界であり、現代なのでしょう。

だからこそ、アルミンがエレン一人に背負わせずに自らも地獄に落ちる、と語りかけた姿からとても深い俯瞰と受容を感じました。

SNSで色んな感想をみましたが、こちらのコメントと近しいことを感じたため、引用させていただきます。

自由の概念

エレンが殺戮を行った理由のもうひとつとして、エレンにとっての「自由な世界」が現実とは異なっていたことが関与しているのではないか、と思いました。

こちらの記事で更に考察が深まったので、私なりの解釈を言葉にしてみます。詳細は記事をご参照ください。

エレンにとっての"自由な世界"は、アルミンが見せてくれた絵本から理想のイメージが出来上がっていました。
壁の外には炎の湖や氷の大地、砂の雪原が広がっている。

実際は、壁外にも人類が存在し、自分たちが知りもしなかった争いの歴史があった。二千年以上続く重い歴史を知ってしまったがゆえに、この世界は理想とは異なっていることに失望しました。

人は、知らない方が幸せかもしれない、と思うことがあります。

例えば、チェンソーマンの主人公デンジは、当初は「パンにジャム塗って食べれたら幸せ」「異性の体に触れてみたい」と日常の中の小さなできごとから幸せを感じていました。

けれど、だんだんとその経験に慣れ、新たな知識を得るうちに幸せのハードルが上がっていきます。

エレンの場合は幸せというよりも自由の概念になりますが、外の世界を知らないままの方が、ある意味自由に、理想の世界を思い描けたのかもしれません。

彼のもつ理想のイメージがアルミンの絵本から着想を得たものであったとしても、恐らくその絵本のことがなくても彼は「壁の外側に行きたい」と自由を求め続けたことと思います。その本質の部分を含めてアルミンは、エレンを受容したように見えました。

改めて、アルミンとエレンの絆に心が震えています。

本誌・単行本・アニメで変更があった

最終回視聴後に考察や感想をリサーチする中で、最終回は連載本誌→単行本→アニメ で変更があったことを知りました。今回はアルミンとエレンの対話シーンをピックアップします。

別冊少年マガジンでの本誌掲載ではアルミンの台詞が

「この過ちは絶対無駄にしないと誓う」

となっていたそうです。

進撃の巨人 34巻  諫山創/講談社

単行本の最終巻(34巻)では

「君の最悪の過ちは無駄にしないと誓う」

となっていました。この過ち、がより具体的に、殺戮という行動に対する否定を示しました。

アニメ最終回では、このくだりはありませんでした。アニメでは前述のとおり諌山先生がネームを描き直しされたので、変更があったのです。

私は原作を読み終わったのが2年前で正確な記憶はなかったのですが、原作よりも対話のシーンが長く、記憶にない流れだな?と思いながら見ていました。

表現の自由と言論の自由

ネームの描き直しの理由は直接は触れられていませんでした。(私が知る限りでは)
諌山先生ご自身が、最終回から数年が経って改めて表現したいものが生まれたのかもしないし、連載時は余裕がなく盛り込めなかった部分を描かれたのかもしれません。

ここからは、1つの可能性として。

原作の本誌掲載および単行本発売時においても、アルミンの発言について「この表現は殺戮の肯定だ」という批判がありました。また、主人公のエレンが死んでしまったことや細やかに語られなかった部分への不満など様々な理由から、海外において最終回の変更を求める署名運動がありました。この署名活動は5,597人の署名を集めました。

そうした批判や炎上をうけて、アニメで描き直されたのかもしれません。

私個人としては、原作最終回を読んだ時に、一連のやりとりが殺戮の肯定であるとは受け取らなかったし、原作でエレンが死んでしまったことは悲しい結末ではありますが、それを撤回するよう求める気持ちは全くありませんでした。

個人が愛した作品に対して批判的な感情であっても情熱的に訴えること自体は、自由であると思います。しかし「自由」という言葉を重視する作品において、なぜ作者の思想を書き換えようとするのかは、全くもって理解できません。

諌山先生は、故郷である大分県日田市大山町のダムから「壁」の着想を得ました。彼の詳しいプロフィールや歴史を私は存じ上げてはいませんが、彼が日本の大分県で生まれ、その感受性を持って周りから受け取ったことがあり、様々な葛藤や挑戦を経て、進撃の巨人という作品が完成しました。

連載やコミック化、アニメ化というのも、様々な製作者が関わることで実現するものです。そういった背景や過程があって生まれた作品や世界観を、否定して撤回を求める、という行動原理が疑問です。

もしかしたら、受取手によっては嫌な思いをされることもあったかもしれません。けれど、それは購入した自身の責任でもあると思うのです。

もし納得がいかないのであれば、身内で語りあうとか、一個人の意見としてファンレターを送るとか、二次創作でなにか作り出せばいいと思います。署名運動が社会的にどんなメリットを生むのか私は理解していないという面もありますが、もっと他に、この作品から受け取ったことで世界を平和にするとか、身近な人が生きていてくれることへの感謝するとか、過ごし方があるのではないでしょうか。

言論の自由はあれど、表現の自由もある。アーティストが創り出したものを否定するどころか、作り変えろというのは、それはアーティストの存在に対する否定だと思います。それでは「自由」がなくなる。

自分たちの思い通りにしたい、というのは、争いの種だと思います。自覚はあるのだろうか…。恐ろしいですね。

わかりやすければいい、というものではない

表現の自由や尊重という部分に敏感で、つい熱くなりました。

なんでもわかりやすくこと細かに説明してくれる作品は、それはそれで面白いと思いますが、想像の余地を残す、問いかけるような結末というのも、今の時代にはマッチするのではないでしょうか。

客観的に評価しやすいものを良しとするのが近代西洋思想だとしたら、語られない部分を自分の主観に従って受け取る、というのは東洋思想的な考え方といえるかもしれないですね。

そして署名活動は海外で起こったことなので、これは文化の違いもあるのかもしれない。そこも含めて楽しんでおくれ。

諌山先生、作品に関わってくださったすべての方々、ありがとうございました。辛い時にこの作品を読み、とても勇気をもらっていました。

人類は争いを繰り返し、痛みから教訓を得て、また忘れられ、争いを繰り返しています。生物の必然ともいえるかもしれませんが、その流れを変えることもできるのではないでしょうか。それを思い出させてくれる作品でした。


それじゃあ、いってらっしゃい。

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