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Rossin Record 1989 at Yokohama

出会いは少年が15歳、中学3年に進級した頃
1989年の春先だったと思う。
中学2年の通信簿で5が一つ以上あれば
ロードレーサーを買ってくれると
大蔵省(当時)の母が言った。
時はバブル、父親は外資系石油会社に勤め
その頃でボーナスは3ケタを貰ってた時代。
しかし住宅ローンを返済する為にやりくりしていた
堅実な母は、これから大学や高校に進学を希望する
2人の息子の為に、余計な出費は抑えていた。
その理由付けを含め、母は私に無理難題を申し渡したのだ。

結果、少年は得意な美術と技術と社会で5段階中「4」を付けられた以外は
総じて3、センスがまるで無い体育と音楽は「2」と言った始末で
これはロードレーサーの購入は到底無理だと悟った。
それと並行し、写真部の同級生S君と共に、K先輩から紹介された
上大岡に所在する、サイクルメイトヨシダ系列店のGEMMA(ゲンマ)
に入り浸る様になり、小学校5年生の時に買って貰った
セキネ26インチランドナーもどきのモディファイをする様になった。


引用:サイクルスポーツ誌1988年11月号
サイクルメイトヨシダ(現Y’sROAD)の広告より。
尚、上記店舗は現存しませんが…
サイクルメイトヨシダのGEMMA(ゲンマ)が入っていた建物は
未だに現存していました。
私が通っていた頃は再開発前の上大岡で、お店の前に踏切があった頃です。
あの頃の面影がまだ少し残っている事に、非常に懐かしさを覚えました。

※2024年2月29日追記
先日近くを通ったので、南太田に移転後のGEMMA(ゲンマ)の場所に
行ってみました。

薄茶色マンションの半地下になっている、シャッターが閉まっているテナントが
南太田移転後のGEMMAの場所でした。(店舗は当然、現存しません。)
上大岡の秘密基地的な造りから一転、明るく爽やかな店構えだったのが印象的でした。
いつものサイクルスポーツのバックナンバー、1989年11月号を見てみると…
サイクルメイトヨシダの、GEMMA移転告知の広告。
この年横浜ベイブリッジが開通し、YES’89横浜博覧会がみなとみらいで開催され
横浜はバブル経済に後押しされ、街全体の機運が盛り上がっていたのを
当時中学生だった私も感じていました。

僅かな小遣いをはたいて、CATEYEのピンク色バーテープや
シマノ600のステムを購入
ハンドルを金ノコで切断してブルボーンバー化
果てには缶スプレーでフレーム塗装をするも
リムーバーで元の焼付塗装を落とす知識や技術もなく
耐水ペーパーで足付けした下地に、近所のホームセンターで買った
アサヒペンの水色スプレー塗料。もちろん二液式ウレタン塗料では無い。
そしてSST(特殊工具)もない悲しい中学生、チェーンホイールやチェーン
リアディレーラーも外せず
所々コンポに塗料が乗り情けない仕様になってしまったのと同時に
26インチと言う700Cタイヤやホイールが履けないと言った
絶望的に汎用性のない規格の壁にブチ当たり
八方塞がりで限界を感じていたところであった。

そして少年は常々、ゲンマの店内に飾ってあった
「SHAULA PRO 105フルアッセンブル、81,000円」に憧れていた。

引用:サイクルスポーツ誌1988年11月号
サイクルメイトヨシダ(現Y’sROAD)の広告より。

メッキ下地の上にクリアブルーの塗装、
黒のステムとチューブラーホイールのアクセント
何より憧れの「SHIMANO 105」のアッセンブル。
グレードダウンのSHAULAエクセージは
色がイマイチパッとしないグリーンと、聞いた事のないコンポ。
「何としてもSHAULA PROを手に入れてやろう。」と頑張ったが
1989年の3月、通信簿の結果に打ち砕かれた。

それから3年に進級し、いつものセキネ自家塗装26インチでゲンマに行くと
普段見ないロードレーサーが店先に置かれていた。
端正なそのフォルムを初めて見た時の事は、今もよく覚えている。
値段はSHAULA PROより高いジャスト10万円。
聞けば中古車との事。
サイスポで名前を知っていたRossinとはこれの事かと息を飲んだ。
「これはとにかく両親を説得しなければ!」と思った少年は
その自転車がとにかく極めて安価で、売りに出されている事を
必死に説明し、今から思えばその意味は殆ど通じなかったと思うが
モディファイや自家塗装する姿を通じて窺える少年の情熱と
サイズアウトした自転車の現状等のタイミングが重なった結果なのだろう
意外とあっさりに母親の決裁が下りた。

この前年、CanonEOS650、35~105ミリレンズ付き中古を
8万5千円で買って貰いました。
前回話をしたリコーXR500AUTOはシャッタースピードがオートの為
早くも性能の限界が見えていたので
当時最先端のAF一眼レフに乗り換えました。
実は、カメラもRossinも買って貰ったと言っても、実は自分のお金で
毎年強制貯金をさせられたお年玉で購入したのでした。
撮影データ、CanonEOS650、35~105、Pモード撮影、FUJIHR400

いつも遊びに行く時には、楽しい雑談をしてくれる店長さんが
購入の際は両親が付き添って来たものだから、終始丁寧な接客で
もの凄い違和感を感じた。
10万円と言う大金で買い物をするのだから、両親が付き添って当然なのだが
それがまた恥ずかしく、こそばゆかったのを今でも覚えている。
初めて跨ったロードレーサーは、とにかく軽かった。
行きは3人で電車に乗って店に行き、帰りは私1人が自転車で自走して帰宅。
少しづつ、確実に親から徐々に離れていく分岐点だったのだと思う。

そして今、改めて見てみると、構成するコンポに一貫性が無い様に思えるか
相当な拘りの集約なのか、意見が分かれる位の1台と思う。

SILCAのフレームポンプが懐かしい。
サドルバッグは城東輪業で販売されていた汎用品。
ボトルケージは多分TA製。
これらも購入時既に付属していたもの。

ハンドル周りは、ハンドルがチネリのクリテリウム。
この時から私は所有するロード全て、ハンドルをクリテリウムにしている。
ハンドルバーには糸で縫った革張り。確かロゴは無かったので
ALMARCではないと思うが
掌が吸い付くようにしっとりした手触りだった。
ブレーキワイヤはハンドルに穴を空け、中を通す処理。
チネリの黒1Rステムにカンパスーパーレコードのヘッド。
ブレーキは7400デュラエースのエアロレバー、SLR化前の7401
ブレーキキャリパーは初期型デュラエース。

クランク(チェーンホイール)、FRディレーラーは
カンパニョーロのスーパーレコード。

ボトムを撮影したが、後ピンになってしまったの巻。
この時既に街中で1時間現像プリントをしてくれる時代でしたがフィルムカメラは一発勝負
画像の確認が即座に出来て撮り直しも容易なデジカメは本当に優秀で便利だと思う次第です。
ちなみに車体番号は打たれていなかったと思います。
後日別の店で防犯登録をして貰いましたが剥がされたら意味ないな、と思いました。

スプロケットは6Sで
ハブはコニカルナットの形状から、初期型デュラエースだったと思われる。
リアエンドにメッキ地を出しているところが、イタリアンな感じ。

サドルはセラロイヤルのSUPER CONTOURで
シートポスト(ピラー)は7400デュラエース。

ペダルはSUGINOのカーボンペダルだったと記憶。
クランクはスーパーレコードの中でも
´85頃に出た最後期型のクランクアームに溝が無いタイプ。

WレバーはSimplexのOEMでMAVIC製だったと思われる。
ホイールはMAVICのGP4だったと記憶。

白黒撮影データ
CanonEOS650、35~105、Pモード撮影、FUJI NEOPANSS フィルム自家現像

残念ながら、この車体は現在所有しておりません。
私の不始末で行方不明にしてしまったからです。
この後高校に進学し、自転車通学をしましたが
徐々にバイクに興味が移り、段々邪険に扱う様になってしまいました。
ある日同級生に貸す事になり
使用後は学校の駐輪場に置いてもらう約束をしましたが
その後、置いて貰ったのまでは確認したのですが
タイヤがパンクしていた事もあり、回収がおっくうになってしまい
そのまま放置してしまったのです。
そして卒業になっても回収しなかったので
学校側の管理権限により撤去されたのだと思います。
私も学校に対し、特に問い合わせなどはしませんでしたが
今もどなたがが、何らかの形で大切にして頂いているのであれば
盗まれてしまった訳ではないので、それで良いのだと思っています。
後悔先に立たず、ではありませんが
物を大切にする事の意味を、良くない形ではありますが
このRossinRecordが教えてくれました。

おしまい。



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