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『 金閣寺の燃やし方 』を読んで。日本のおもてとうら

三島由紀夫は、すごい作家なのか。

すごい作家なのは、まちがいない。
『 金閣寺 』の華麗な文体だけども読んでいて疲れない文章からこぼれ落ちるようなドロドロとした汚泥のような犯人の心境がギラリと光る哲学的な文章に魅せられた。

デビュー前の筒井康隆さんが、三島由紀夫の『 禁色 』を読み、こんなにすごい文章を書かなければ小説家としてデビューできないのかと、打ちのめされ、絶望させられたと書かれていた。

その美文はたしかに美文ではあるが、論理性を持った美文で、警句や箴言(しんげん)がちりばめられていた。

読書の極意と掟より

三島由紀夫の美についての考えを『 金閣寺 』の主人公をとおして書いている小説。それが『 金閣寺 』だと思う。
『 金閣寺の燃やし方 』のなかで、三島由紀夫は頭のなかで考えたことを文章で伝えようとした作家だったと書かれている。
三島由紀夫の考えていることのすべてを小説のなかに書けなかったのではと推測されている。

書は言を尽くさず、言は意を尽くさず。
言葉でのべることを書いてもすべては伝えられず、考えていることを言葉ではすべては伝えられない。
中国の古典の易経に書かれている言葉が、頭のなかに浮かんだ。

『 金閣寺 』は、三島由紀夫の代表作のひとつにあげられる。
『 金閣寺の燃やし方 』を読みおわると、三島由紀夫の代表作のひとつにあげてもよいのか、と考えるようになる。

『 金閣寺の燃やし方 』を書かれた著者は、もともと三島由紀夫のファンだったと書いている。
ある書店で水上勉の『 五番町夕霧楼 』を手にとり、金閣寺の炎上について書かれた本だと知る。
そして、三島由紀夫と水上勉。ふたりの作家の金閣寺の燃やし方を分析しようと思いつく。
三島由紀夫と水上勉の金閣寺について書かれた文章を読み分析しだした当初は、三島由紀夫をもちあげようとしたそうだ。
けれども、文章を読みすすめ、対比し、筆をすすめるにつれ水上勉びいきになってしまったと書かれている。

三島由紀夫をおもて、上とし、水上勉をうら、下とたとえられている。
水上勉は、弱い人間の立場によりそい、悲劇的な物語を書く。
日本人の心境としては、水上勉が書く悲惨で不幸で貧乏な登場人物に同情せざるをえない。
水上勉の文章とくらべれば、くらべるほど、三島由紀夫の『 金閣寺 』の金メッキ感が浮きたつようになってくる。

『 金閣寺 』は小説なので、虚実を混ぜつつ書かれている。いっぽうの『 金閣炎上 』は、九割九分ノンフィクションといえる。
真実を提示されたあとに、虚を読まされると、すこしシラケた気持ちになる。これは、三島由紀夫のせいというよりも、水上勉が三島由紀夫を意識して書いた結果だろう。
水上勉は、三島由紀夫の『 金閣寺 』を意識しながら『 金閣炎上 』を書いたと対談で語っていたと紹介されている。
どれだけ論理的な美文を三島由紀夫が書いたとしても、真実のまえには、かすんでしまう。
三島由紀夫が、華麗な文体を書けば書くほど、その豪華絢爛な文章に誠実に暗い影ともいうべき水上勉の文章がおおいかぶさる。
そして、三島由紀夫の文章が独善的なものに感じられ、ひとりで身悶えいるようなひとりよがな文章に感じられ、マスターベーションを見せつけられるような見てはいけないものを見てしまったような気持ちになる。

前髪をかきあげながら、してやったりと水上勉が笑っている。

小説なので虚を書いたとしても、まったく問題はない。
前田慶次郎が槍のひとふりで10人も殺せなかったり、坂本竜馬が大活躍してなかったりしても小説がおもしろければ問題ない。
『 金閣寺 』の不幸は、『 金閣炎上 』が影のようにつきまとっていることだろう。

『 金閣寺の燃やし方 』を書かれたのは女性であり、女性の目線でふたりを観察なされている。
方言をつかう水上勉、方言を使わない三島由紀夫。昔からモテた水上勉。モテなかった三島由紀夫。義務として結婚した三島由紀夫。女性に好かれようと努力した水上勉。
おそらく、8割の女性は、水上勉を好きになるだろう。しかし、最後の最後に水上勉は、女性を冷酷に切りすてるのではと作者は想像なされていた。
女性のヒモになっていた時期もあり、結婚した女性に逃げられた水上勉。たしかに、冷酷な面をもっていそうだなと。

そのほかにも、母親について、犯人について、の二人の考えかたを考察し、挙句の果てに、童貞喪失についても考察をめぐらせている。
たしかに、童貞喪失は、どちらの物語にも登場する重要な単語ではあるが、私はたいして重要でないように感じられた。
『 金閣寺 』の主人公が、幻想のなかで金閣寺を美しいものとして作りあげ、実際に金閣寺を目にしたときにガッカリする場面が書かれている。
女性の幻想を作りあげすぎ、童貞を喪失した瞬間に主人公はおなじような気持ちになったのではと推測し、童貞喪失は重要な単語ではないと考えた。
しかし、『 金閣寺の燃やし方 』の作者は根ほり葉ほり、ふたりの童貞喪失について考察している。
童貞喪失について書かれた真面目な文章を読んでいると、口元がほころんでくる。
水上勉は、あけっぴろげに童貞喪失について書いているが、三島由紀夫は童貞喪失については書いてはいない。
ところが、初めての精通については書いてあると『 金閣寺の燃やし方 』には書かれていた。
はりつけになった少年の絵をみて、恍惚とした気持ちになり、精通したと、よくぞはじめての精通について、そこまでうっとりとした文章を書けるなと、あきれさせられたと作者は書く。わたしもそう思う。

『 金閣寺の燃やし方 』には、水上勉の『 金閣炎上 』をホメるだけでなく、宗教批判に傾きすぎてはいないかと疑問を投げかけられている。
水上勉は、禅寺で修行し、還俗した過去をもつ。
禅寺の和尚が妻帯し、高価なものを食べている姿を見る。そして、先輩の自慰を手伝わされたと『 金閣寺の燃やし方 』には書かれている。
還俗した水上勉だからこそ、禅宗にきびしくあたりすぎてはいないか、主人公の口をかりて禅宗をきびしく攻めすぎてはいないか、とチクリと警告されている。

ただし、『 金閣寺の燃やし方 』には、このようなことも書かれている。あれだけの人間から拝観料をせしめ、グッズを販売しているにもかかわらず、トイレにティッシュペーパーすら設置されていない、と。

税金もはらわず、がっぽがっぽ金を稼いでいる獅子身中の虫のような生臭坊主には、水上勉のように強く厳しい言葉を投げかけてもよい、と私は思う。

なお、NHKの『 アナザーストーリー 』では、和尚は立派な人物だった、と放送されていた。

さて、最後になりましたが、『 金閣寺の燃やし方 』をひとことで表現するならば、三島由紀夫ファンですらも水上勉派にかえてしまう魔力をもつ本です。

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