彦坂尚嘉論(6)

現在の彦坂のスタンスをよく伝えている動画だと思った。

(ヨーゼフ・ボイスが)芸術が社会とかかわりをもち、社会を変える力を持つことを強く訴えた芸術家だ、と。これは間違い

同上

補足すると「嘘」といっているのは、ボイスが自説を行使していないということではなく、その掲げているところの観念そのものが「嘘」であるという意味である。

彦坂はボイス、ならびにドイツ系アーティストの最大の友・追随者としての我が邦の美術界も厳しく批判する。

ただしこの対立自体は何度も「反覆」しているものと心得るべきと思う。とりあえず20世紀に限定するが、高名なのが1934年にヴェネツィアで開催された対談「芸術と現実」で展開されたアンドレ・ブルトンとルイ・アラゴンの論争である。

ブルトンは芸術をファシズムや全体主義への抵抗・反抗の形式とみている。対して、アラゴンはそうではなくアーティストも社会性を十分に意識しなければ現状を打破することはできないと主張した。

その後も肝心の”問い”の回答は宙づりになったまま、ブルトンーアラゴンの「芸術と現実」をめぐる対立(どちらの陣営にもつかず、あえてファジーにふるまうという人も含めて)の類型は再生産され、いくつもの前線として徒に複層しつつ、今もなお継続中である。

近年でも、私的な舌戦、あるいはそれ以上の法的事案として、あるいはタイムラインでの疑似プロレスとしての”諍い”をいくつか目撃してきたがどれもマンネリという印象はぬぐえない。この反覆からアーティストたちが解脱できないのは何故なのか?

ようするに呪いのようなものといえるだろうか。呪いとは何か?というと、むずかしいが、ひとつには、それは快楽原則、性的エネルギーの発露であると、いちおうはいえると思う。

ちなみに彦坂がたびたび発言する「具体」は、おもにモノ派への批判の文脈で使われることもあるが、より本質的にはアンドレ・ブルトン流のアヴァンギャルドを反映していると考えるべきだろう。

ただし作品が「具体」的であることが、即駄目な美術の条件であるような、子供っぽい論法をふりかざすアーティストとは違って、彦坂がこの言葉を使うときは、さすがにその方面には無知なわたしにも、一直線なきめつけ方ではない、どこか老獪な雰囲気が感じられる。

いうまでもなく「抽象ではなく目の前の現実を見よ」という「具体」の精神はフランス絵画の正統中の正統(シャルダン、ヴァト―、クールベ、ドラクロワ)であり、ほんらいは、むやみに否定できるものではない。

彦坂がより深刻なのは、美術が滅びつつあるという認識をブルトンよりもはるかに強く持っている、というところにある。

<続>

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