我負ける、ゆえに我あり(1)

世の中には、持っている人と持たざる人がいて、後者がいくら頑張っても前者には勝てない、このことはあるていど歳をとった人なら、ほとんどが知っている(まあ、摂理をわきまえない無敵の者もいるだろうけれども)。実際に肌で感じはじめるのは、どうだろう、おそらく思春期以降、中学生頃だと思うが。

発達と共に、自己と他者との区分が明確になるにつれて、凡人と秀才、非モテとコミュ強、ブスと美女、メンヘラと健康優良児、等々の諸々の格差、偏見やスティグマが顕れはじめる。

考えてみれば学校とは子供たちに負けることを教えているようなものである。

成長とは敗北をかみしめることでもある。

まことに残念なことだけれども、この資本制の世界では、競争原理、勝ち負けを中心に据えた考え方から抜け出すのは容易ではない。

さらに今日日、資本主義と科学、加速主義が魔融合を果たしたようなもので、常にスピードが追求される。

ほぼ毎日リリースされるビデオゲームを嫌々やらされて、新しい課題に直面し、常に適応する必要があるようなものだ(むろんそのような最適化を峻拒し、田舎に引き籠る、等の道もあるにはあるだろうが)

最近のウェル・ビーイングについての議論も、かのような厳しい社会的課題が反映されているようである。

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