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パンドラの箱開封してみた 恋愛作品評論シリーズ①『花束みたいな恋をした』

※この記事はネタバレを含みます

はじめに

 恋愛作品が嫌いだ。とにかく大嫌いだ。死ぬまで近寄らない。親の死に目よりみたくない。もしも頭に銃口を突きつけられて、何時何分何秒地球が何回まわったかをそろばんで数えさせられて、宇宙の成り立ちを理解してしまって脳がパンクしてしまい、死んだ方が楽なのに泣いて藻掻いてまだ生にしがみつく自分の愚かさに気付かされて、「お前を救ってやるから恋愛作品をみろ」と言われたとしても、それでもみたくない。それを自主的に見るのは世界が終わる時だ。むしろ逆に、それをみた瞬間にノストラダムスも腰を抜かす天変地異が起きてみんなで手を繋いで地球最期を迎えてしまうのかもしれない。あるいは下のツイートのように、切羽詰まった心境で手軽に正気と狂気の境界線をはかる便利なツールになるかもしれない。これらはただの誇張だが、簡単に程度を表すとそのくらい不愉快なジャンルなのだ。

 嫌い以上に、怖い。薄気味悪い田舎町でそれについて口にすることすら憚られる禁忌やタブーに踏み入っていくような。ダークウェブ(普段目にするインターネットの奥底にあるかなりエゲついコンテンツが眠る場所)の、そのホトリの一辺を偶然覗いてしまうような。それに似た怖さ、恐ろしさがそこにある。下手したら超一流のホラー映画よりも恐ろしい。私にとって恋愛作品は芸術世界のダーク・マターである。そしてそれは恋愛ポルノと呼ぶにふさわしい。


「性的にあからさまな主題を扱う文学や美術のすべてが、単純にポルノグラフィーと呼ばれていたのである。それゆえ、エロティックな表現とポルノグラフィーの表現とは質的に異なるという現代的な主張は、ほとんど語源的・歴史的妥当性のない、最近できたばかりの恣意的な言語学的因習に他ならない」

(ジョアン・ホッブ『ポルノグラフィーにはなぜ歴史が無いのか』現代思想①1990 vol.18-1 特集)

タイトルから至上の目的たる恋愛に直列する作品に芸術性を見いだすことは難しい。結局それはどうにか工夫を凝らして気取るに気取ったアダルト・ビデオだ。欲求に対してあまりに直接的に迎合するそのジャンルからは、例えるならば女性をいきなり「ホテルに行こう」と誘うような無粋な媚びと同じ不快さが味わえる。

 ここまでポンポンと(本題の感想以上に)悪口を言えるが、私には決定的なものが欠如している。何を隠そう、その作品たちを観ていないのだ。近所のバーで同じような減らず口を恥ずかしげもなく披露した後に言われたことがある。「その作品はみたの?」「や、みてません」「みてねーのかよ!」
全くその通りである。食わず嫌いがよくないように、作品を観ずに論評するのもよくない。至極まっとうなご意見だ。

 そこで、今回はその心のブラックボックスを開けてみたい。直接のきっかけは先日購読した一冊の本だ。「反=恋愛映画論」というもの。店頭でこのタイトルを見た時には「自分の代弁者がいる!」と言わんばかりに喜んで本書を手に取っていた。しかしその内容は期待していたものとだいぶ違っていた。恋愛作品嫌いの人が恋愛作品好きの人と語り合う座談形式の記録書であり、小難しく作品をメタ化するに留まっていた。広告主の不祥事をサラッと流すマスメディアの如く、アンチというにはほど遠い棘の抜かれた薔薇みたいな、見るに易い飾り物であった。私はやっと見つけた味方に落胆し、もはや自分で書く以外にないと思いたつ。自世界最大のタブー恋愛作品を見て感想を書く。それが今回の大迷惑な自傷・他傷行為だ。

 私のことをよく知らない読者のために親切心で書くが、私はいい意味でも悪い意味でも(後者に偏重して)紆余曲折・挫折マシマシ・ギリギリ前科なく絶望の中を生きてきた。その結果性格はMr.マリックの曲芸のために折られる練習台のスプーンくらいにひん曲がってしまった。そんな不毛な土俵でまったく正体不明な相手と空相撲をとり続けている。その愚かな思考癖と歪な視点から作品をボロクソに言ってしまうことがあるが、それは偏に私の人生がハッピーで埋め尽くされずノーマリティが欠乏していることに因る。先に誰かに言っておきたい。申し訳ない。ちなみに最初に好きになった作品は恋愛アニメの『とらドラ!』である。


 

 今回の被害者

というわけで、今日の作品はこちら!
どぅるるルルルルルるッ・・・スカーッン!
『花束みたいな恋をした』!!💐🎉🎊

 泣く子も黙る21世紀における恋愛映画の金字塔。2021年の公開から瞬く間にその人気を博し、一部の”準”サブカルガールズ(アンドボーイズ)から絶大な支持を得ている。【注:この記事はSDGsに配慮しています。】主演である菅田将暉・有村架純のために映画館へ行く人間と、それがゆえににわざわざ映画館を避けて通る人間とに日本国民を大きく二分してきた。いわば自然発生的なアパルトヘイトであり、詰まるところ全自動人種分断マシーンだ。この作品を”それ”と最初に認知して出た感想がこれだ。「戦争で若人が命を賭して守った未来がこれか・・・」と。

漫画『にゅーたん』より https://seiga.nicovideo.jp/comic/15005

 菅田将暉も有村架純も何が何だか知らないけれども、どうやら世界の至り知らぬどっかの場所で、何やら確実に自分の鼻につきそうなものが作られているようだった。そして私が一体何をしたというのか、色々な場面でそれが目についてしまい、無視するために随分な労力を必要とした。本当に私が一体何をしたというのか。心当たりは少しあるけどさ・・・。とにかく、観るのが恐ろしいのでエアバッグを搭載した。同じく恋愛作品が苦手な後輩に先に見てもらい、私が後追いで感想を送る形をとった。その中での気付きをまとめていく。それではレッツゴー。


 前半:無限キショ地獄編

・冒頭。小奇麗なカフェで仲睦まじくイヤフォンを左右分かち合って、一緒に同じ音楽を聴いているカップル。それに対して主人公の男(菅田将暉)が
一言、「あの子たち、音楽好きじゃないな」うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああきっしょ!!!!!!!きっっっっっっっっしょいなああもう!!え~~~~~~~~きっしょ!まじできしょいな!どうした?話だったらマジで聞くぞ!電話しろ!!!いつでも聞いてやっからヨ!!!!!!!!👊👊👊別に誰が何聴いていようがどんな聴き方していようが自由だろうに。自分も結構な頻度で別ジャンルの音楽とか馬鹿にしてしまうけど、でもそれを目の前で、聞こえる距離で誰かに鼻の穴を広げて話すのが野暮すぎる。何よりこの後に主要人物の二人が「教えてあげよっかな」とか言って席を立ってチキって席に戻るまでがこの世に類を見ないサブイボアッパーだったヨ!しかもそれを言っているのがCafeでCoffeeを嗜んでる身なりのちゃんとした恋人持ちなのが、お前が何を言ってんだという感じだ(妬みに聞こえてきて落ち込んだ)。

 話はそれるが、菅田将暉の曲にロック性なんて感じない。彼は演技では天才かもしれないけど、ロックは似合わない。ロックっていうのは、もっと絶望的で、生命の最期の足掻きでやっとの想いで縋る自己表現としての最終手段なわけで。その怒りや恨み憎しみを抱えたその感情が滲みだして初めて良さを発揮するジャンルなんだ。その形のない感動物質を便宜上ロックンロールと言ってきたんだ。だから彼みたいに”持ちたる強者”が悠々とした面持ちで作曲して、すげー業界人の知り合いにミキシングを頼んでとにかく「いい感じ」のものを作るのに適したジャンルじゃないし、そこにロックンロールは生まれない。音楽以外で人気だった人物が本当の意味で音楽を評価されているとは思えないしね。これは今の邦ロックというジャンル(私にとっては悪口)に言えることで、スターバックスの店員をなんなくこなせるハッピーなやつが今までの社会不適合でジャンキーなやつを淘汰してしまい、ペニスで歌を歌うフェイクが蔓延してロックというジャンルをこれでもかとコテンパンに駄目にしてしまっている現状がある。その筆頭が菅田将暉な気がしていて、その張本人である彼が冒頭で「音楽好きじゃねーやろ(笑)」とか見ず知らずの誰かに言ってしまうのが残酷でツライ。やめてくれ。もういっそ殺してくれ。

後輩とのライン

 開始数分で既に胃もたれがおきている。読んで字のごとくまさに地獄の様相。目を閉じれば世の恋愛嫌いの阿鼻叫喚が聞こえてくる。視聴を継続するのにこんなにコストがかかる映画を見たことが無い。と、いちいちシーンをあげて説明していてはキリがないのでパッパといこう。

・有村架純が人数合わせで呼ばれる西麻布の合コンシーン。彼女が友達と絡む場面とか映されなかったし親友はいないのか?そんな所に行こうとかいってくるレベルの交友関係しか築けないから、泣く泣くサブカルに逃げてるだけじゃないか?というかそれってメインカルチャーへの反発でもなくないか?それ、普通の生活ではないと思うけれど。あらゆる物を見て、本当にそれが好きだからそれを好きになるのが本当の好きであって、消去法で浅ましく承認欲求を満たすためのサブカルが本当にサブカルなのか?と思ってしまう。かつてのアニメ文化では、そこを選んでそれを好きになった”攻めのオタク”によってアニメが芸術となった。その文化が普遍化してからやってきた負け犬根性で面白みのない”守りのオタク”によって文化は廃退した。こういう「仕方なく流れてきたやつ」に利用されてサブカルチャーも廃れていくのだろう。

【岡田】77年の段階でもまだ研究会の中に「アニメを作りたい人」はいたんだけども、「アニメを観るのが好き」なだけの新入生が大量に入ってきました。(中略)その結果、日本の自主制作アニメの流れっていうのは80~84年くらいで途切れちゃって、絶滅したんです。新しい普通の人が大量に入ってくると、その文化って死ぬんですよ。

宮沢章夫「東京大学『ノイズ文化』」講義」第三回対談1「オタクの終わり」より (白夜書房)

(じゃあお前も映画論評するなら映画を作ってから言えというご意見はダメージがでかすぎるのでよしてください。)
その後、合コンを楽しめない有村はラーメンランキングで明大前駅周辺のラーメン屋を探しはじめる。ここまではいい。しかし行ったのが風龍。リアルに「風龍!?!?!?!?!?」と声に出ていた。こりゃたまげた。まじでどこにでもあるチェーン店の、替え玉を無料で欲しい貧乏高校生が行くほぼ日高屋みたいな店だろう。断っておくが、風龍も日高屋も最高に美味しくて大好きだ。しかし、メインカルチャーへのカウンターとしてのサブカルチャーをテーマに恋を描こうとしているのに行ったラーメン屋が風龍かよというツッコみしか出てこない。しかもサブカルが大好きそうで飲食店が大量にある明大前駅でだ。もっと、あるだろ。もっと他のところがあっただろ。その後の有村の「好きな言葉は替え玉無料です」が殊更気持ち悪く感じるのも故なきことじゃない。

・終電を逃した初対面の4人で夜中もやってるバーへ行くシーン。出版社勤務と名乗る男が挙げる好きな映画「ショーシャンクの空に」を馬鹿にする(ような雰囲気の)主人公二人。出版社勤務だったら毎日あらゆるコンテンツに触れていて、全員初対面のその場で話題にするためにわざわざ有名どころを言ってあげるコミュニケーション能力の高い素晴らしいムーブだろ。何を馬鹿にすることがあるのだこのクソガキ共は・・・。かたや菅田と有村は近くに座っていた押井守に気付き、それを知らない相手に対して説明するでもなく「神様がいる・・・(笑)」「映画とかは見ないですか?」とか超失礼なクソガキムーブ。4んでくれ。そういうのはサブカル好きとかじゃなくて無知蒙昧の傲慢さが生む未熟な自己顕示欲だ。リスペクトピーポー。

 ・・・段々ムカつき疲れてきたので、もっと短く行こう。

・きのこ帝国を利用するのやめろ。最近、浅い自称音楽好きのプレイリストによく登場して何かと思ったらここか。やめろ。著作権とかの関係でこのシーンだけ切り抜かれてほしい。あるいはそこだけ数年後に音源差し替えか無音になってほしい。

・付き合い始めて一緒に寝たことくらいはぼやかして示唆とかすればいいものを、わざわざナレーションで直接いう。自分はキモぉくらいだったが、後輩にとってはかなりキモかったらしい。曰く「こっちに話しかけてくるな!」特に「ここでもしたし、ここでもした」という謎報告シーン。たしかにメタ認知してみるとさらにキモさが増してくる。どうかこれ以上怒らせないでほしい。彼女、今村夏子好きじゃないらしいからサ・・・。

・有村が定期的に読んでいる「恋愛生存率」というブログの話。まじで恋愛以外考えるコトないのか?大学生なのに恋愛しかやることないのか?それ以外なんかないのか?恋愛しか考えられない脳なのか?というかそこから哲学チックなことを言ってくるのやめろ。それ聞かされたとしても、「深いな」が口癖のRYKEY DADDY DIRTYですら「深いな」って言ってくれないぞ。

・花のくだり。女が花の名を教えると男は一生その相手を思い出してしまうとのこと。おい。映画が2時間で終わって、別れることが確定してる恋愛話を芸術に昇華させたい魂胆が見え見えだよ。下心みえちゃってますよ。とりあえず、パンツを履け!!!

・圧迫面接で泣く有村に、迎えに来る察しの良い彼くん。それで「そんなのやめちゃいなよ」で就活を辞められる女。そりゃ苦労してきたおっさんも圧迫面接したくなるわ。世の偉いおっさんたち、世間知らずのこの小娘に正義の鉄槌をお願いします。ていうかどっちも大学生のプーでバカでかい部屋に引っ越せるのなんなんだ?

・宝石の国をベッドの上で一緒に読んで泣けるはずないだろ。フォスフォフィライトが可哀想になるくらいまで、永遠に感じられるほど究極に長いからな。それまでお互い肩を寄せ合ってあのシーンまで集中してられるなら、いっそのことバディを組んで甲子園に行け〜〜!!✋==⚾

この時点でまだ半分程度。まじで宝石の国より長いぞ。時空歪んでる?

 フェイクとミスマッチ

 これを言ってしまえば全てが終わってしまうことだが、こんなやつらは現実にはいない。フィクションの禁句だから言わないでおいたが、少なくともサブカルにこんな奴はいない、と私は信じたい。
①まず煙草を吸うシーンが出てこない。おかしい。煙草吸え。
②本の虫なはずなのに両者目がいい。サブカルは全員目が悪いんだよ。
③男が童貞じゃない。サブカル男は童貞性があるから「てやんでぃ」の江戸っ子意気地でキモイこと始めるんだよ。それがサブカルの始まりなんだよ。そのせいで性格がひねくれているから、あんな目に光は灯されないんだよ。
④共感性の強さ。サブカルにいる人間は共感とかコミュニケーションがド下手なんだ。そんなに話は続かないし目も3秒以上合わせない。だからこそ初対面の人間とバーに行くときは張り切ってとびきり喜ぶか、強烈に嫌がって行かないかの2択のはずなんだ。だからあのシーンは実在しえない。
⑤小奇麗すぎる。サブカルはな、部屋が汚いんだ。髭もボーボーで皿は洗わないしシャワーは真っ黒で電気もつかない。魚用グリルは灰皿にされてるはずなんだ。本も絶対に本棚に返すことが出来ないんだ。汚い世界なんだ。
⑥滑舌がいい。サブカルはな、声が聞き取りにくいんだ。考えも支離滅裂でこもった喋り方をして聞こえないんだ。

『チェンソーマン』藤本タツキ 95話より(集英社)


 こんなにわがままなアンチの言うことなので全く聞いてもらわなくて構わないのだが、プロの俳優女優(を使う)ならもっと没入できるリアルな設定作りをしてほしい。と要望するのも無理はない話だ。もしリアルなイメージに沿うなら自分の中ではソラニンが抜群にうまい。ああいう人ならいるいる。みたことある。

 結局この作品の一番の問題点はここだ。つまり観客が認識している二人の主人公は絹と麦ではなく ”菅田将暉と有村架純” なのだ。絹と麦のではなく、菅田と有村が演じるラブストーリーとしてのみこの作品は商売され消費されている。個人的には菅田将暉の演技はとても上手くて、いくらキモい内容でも自然と頭に入ってくるので違和感はなかった。しかし有村架純に関しては完全にキャスティングミスマッチとしか思えない。明らかに大事に育てられてきて、アクのない素敵なご尊顔。サブカルにハマるならもっと苦痛が顔に張り付いていたり自我を持った服装をしたりするはずだし、彼女のあどけない笑顔から察するに、自主的に小難しい本も読んだことない気がする。本当に気がするだけだけど。だからこそセリフが全部棒読みで言わされている感じがするし、小説風の語り口でナレーションをされるとなんとなく癪に障るのだ。そしてそのフェイクさが菅田の演技力との対比で浮き彫りになってありありと現れてしまう。実体験に基づく妄想を言えば、あのタイプの女性は激キモ写真集とか趣味の性癖を見せる段階(に行く前)でどこかしらこちらの人間性にドン引きして実家に帰っていく。うん・・・。それで気持ち悪がらずに残るあどけなさを演出したいなら、もっと馬鹿そうな女でキャスティングすれば良かった。とにかく作品の意匠と目的に対して有村架純はその役に極端に合っていない。若い観客を呼ぶためとはいえ最善策とは思えない。

 畢竟、サブカルというものが他の恋愛作品との差別化に利用され、そのフェイクを凌駕する素質が備わっていなかった有村は能力云々ではなく単なる人物ミスマッチなのだ。だってあの見た目でミイラ展に興味なんて湧くはずがない(と思いたい)だろ。広告代理店がなんで恨まれているのかもわかってないから、広告代理店をディスるときにもあんなに嫌味とドスのない言い方になってしまうのだ。というかむしろ、普段の仕事柄彼らに恩恵を与え、受けとる側の人間だから気持ちが乗らないのは必然だ。こういうのを込みこみでとにかく彼女は作品の中で浮いている。私も大学で浮いているから、むしろ親近感が湧いてくる。



 後半:普遍性と現実感

 あれ?なんか面白いのでは?と思い始めたのは両者の就職活動が始まった頃だった。暇を持て余し理想に生きていたモラトリアム男女が現実と向き合う。そしてなんとか就職を果たすも、仕事が原因でお互いすれ違いや蟠りが増えていく。・・・リアルだ。急にリアルだ。行くはずだった映画にいっしょに行けなかったり、仕事を優先して二人の時間が大切にされなかったり。この年齢の人間なら誰もが経験するありきたりな出来事を、教科書のようにさらっていく。男が仕事に精を出して頑張る姿を応援したいしとも思うし、理解しながらもないがしろにされている感覚を得てわがままを言いたい女の気持ちもわかる。なぜなら普遍的な話だからだ。何の変哲もないが、しかしリアルだから共感できる部分がある。中でも印象的だったのは、行けなくなった何かの再演に行くか行かないかで揉めて有村が「『じゃあ』なんだったら行きたくないよ!」と怒るシーン。誰かが考えた傀儡人形みたいな今までのキャラクターに、それまでなかった自我と付帯する現実感のある感情。絹というキャラクターから人間味が押し出されて、むしろ愛しく思い始める。面白い。有村さん、あなたいい女優ですよ。さっきの悪口はナシで!( ´∀` )

 ここでは二人が対照的に描き出されその変・不変を示唆している。菅田は変化する。やる気のなかった仕事に熱を持ち始め、今まで興味を持っていたものからビジネスに関心が移り行く。何より生活のために働き、働くために生活を犠牲にしてしまうよくあるパターンだ。急に頑張りだして偉い。逆に有村は全く変化しない。仕事が終わり空いた時間はゼルダゲーム、映画やら本やら。興味は全く変わらず、仕事に精を出したりもしない。「いつまで学生気分なんだ」と菅田に思われていた通りまさに学生の延長。しかし、わかってしまう。理想はこれである。

 こうして段々と心の溝が大きくなっていく二人。睡眠前のベッドで「映画面白かったね」という菅田の言葉に「ね。」と返す有村。友人の結婚の話題になっても有村はそっけない反応を示し話題をすり替える。このシーンは冷めていく両者の関係を演出するのが非常にうまい。見ていてうあ~この感じわかる~~セックスレス3か月はマジでやべ~ぞ~!と心の中で合いの手を入れてしまうほどのリアリティだった。

 そんなどうしようもない時に出てくるイケオジぶった間男の社長。ゲームチェンジャーが現れて盤上が面白くなってくる。菅田が仕事で色々大変な時に、有村は間男社長の膝の上で寝てしまう。その後二人で抜け出すがその間の描写はない。寝てしまったのだろうかわからないがその間接表現は考える余地があって良い。その後偶然菅田に出会うのだが微妙な顔。まじでやっちゃったのかな。このように、後半に入ってフェイクじみた理想の恋愛だけではなく、現実と向き合っていかなければならないリアルさを持って作品としての面白さが増す。そして切羽詰まった菅田は、なんでもないことに職場でキレてしまう。その後会社で寝ながらパズドラやってるシーンが、その映画特有の哀愁表現でオリジナリティが感じられて面白かった。サブカル←→大人気スマホゲームの対比で菅田の生活の変化を表現しているのだろう。

 そして菅田が世話になっていた先輩が死ぬ。その出来事に対する感情の違いからさらに溝が明らかになる二人だったが、なぜか仲直りセックスをおっぱじめる。まじ動物すぎて笑う。しかし事後に何もコミュニケーションがないあたり終わりかけの恋人感がリアルすぎてこっちはつらくなる。ここで注目すべきは死の扱い方だ。だいたいの映画において死を主軸に物語が語られる一方、この映画は死をそこまで表に出さずにいる。その代わりとして恋愛を表題に作品を作り、死や何よりも愛を前面に押し出す。そう考えてみると恋愛作品というものはむしろ、最低最悪の俗物などではなく王道に歯向かうロックなものなんじゃないか?とさえ思い始めてきた。

 互いが関係の終わりを察して思い出のファミレスで話をつけに来る。しかし思い出のあの席は今回は空いていない。このシーンもよかった。恋愛はタイミングという言葉が脳裏をよぎる。別れの切り出し方も完全に平凡な「別れよう」の言葉ではなく、今までのことを互いに振り返った後で礼を言うスタイル。そこで菅田が急に別れたくない+結婚しようダブルパンチで仕掛けに来る。いい意味でリアルでキモい。この別れ際の男特有な支離滅裂具合が、悟って理知的になる女との対比も相まって現実味を感じる。そして古今東西男女の馴れ合いのその普遍性を見るのだった。

 そしてこの映画のクライマックス。自分たちの過去の写し鏡のように、初々しくなれあう男女が自分たちの思い出の席で同じような会話をするシーン。過去の楽しい日々とその始まりを回想し涙に震える。あそこは恋愛作品アンチの私も単純に感動してしまった。その後有村がファミレスを出て行き菅田が追いかけて抱きしめあうシーンでは「え、復縁するん?」という疑問でポカーン( ゚д゚)状態。このあたりは本当に作品としてこの映画を楽しんでしまった。感情を動かすと書いて感動とするならばこの映画は感動的である。いろんな意味で。全然泣けと言われれば泣けるかもしれないが、そこで努めて泣かないのが芯の捻くれた真のサブカル的キモさを持つ私の性なのだった・・・。

 悔しい

 悔しい。悔しいが、面白かった・・・。さすがに真正面から全部受け入れて楽しむことはできないが、メタ鑑賞するとその面白さに気付ける。というか前半のキモをキモとして認知できていないと後半の際立った面白さにも気づけない気がする。結局最後までタイトルの花束が出てくることはなく、そのタイトルの意味を観客が想像する。はっきりとした解答のないその意味を想像する含みがあるのもまた作品としていい。

 それならば、面白かった後でもどうしてこんなに嫌いなんだろう?タイトルだろうか?題名から恋愛とわかりきっているものに卑俗さを感じ、つとに拒否反応を示してしまうのかもしれない。なんならタイトルは『花束』だけでよかった。売り方だろうか?高年齢層に人気のある脚本に、若者に人気がある役者二人を使って相乗効果を狙っているのがよくわかる。そこに(時に邪魔な)商業主義への忌避感情が生まれ、この映画を芸術として認めたくないのかもしれない。

 粋という言葉がある。その日本的美意識を開明した九鬼周造によれば、いきというのは媚態であり、諦観であり、意気地なのだという。つまり欲望に一直線でなんのクセなく突っ走っていく物事に対しては粋の反対語、不粋ということになってしまう。この映画に対する最初のイメージはこの言葉がよく似合う。それそのもの以上に、そのやり方に忌避感を抱いているのだ。そういう類のものが殊恋愛映画に多くあり、その忌避感情の対象を恋愛と誤認してしまっているのかもしれない。

 内容が面白いというのだからこそ一層悔しい。制作する段階で恋愛作品特有の”そういう”扱われ方をされるてしまうのも目に見えていただろう。そうやるにしてもここまで露骨じゃなくて、間を取ってちゃんとした塩梅でやればいいのにな。もしかしたらそれが分かっていないからこんなに不粋になってしまうのかもしれない。恋愛のことばかり考えることにリソースを割きすぎて、世界がどうとかこれがどう美しいとかを考える余白がないのかもわからない。ちょうど作中の有村のように。何か少しでもそのいきに近づいていれば、この作品を好きになれたのだろうか。それが悔しい。

 しかし内容としては、特に最後の、結婚して終わりというわけではなくきっぱりと綺麗にお別れしていくあたりがその領域に達していて日本的な美意識をうかがうことができる。仮にこれがアメリカ映画ならば終わり方も違ってくるだろう。完全な偏見だが、アメリカンドリームのアメリカンなアメリカ美意識では、とにかく努力してマッチョに金を稼ぎ、うざいやつをビートして見事にお相手様と爆発的な結婚して終わるはずだ。(そんなことはないこともないとする)この作品はそうしたものへのアンチドラマツルギーとしてのバッドエンドをするでもなく、バッド・バット・グッドな展開にもっていったのはなかなかにいきな展開である。最後に話もせずに手を振って別れる様は、『君の名は』以前の新海誠作品に通じるものがある。そうした外国であまり見られない日本特有の未完の哀愁をこの作品にも感じるところがまた面白いポイントだった。


おわりに

 恋愛は俺たちなんだ、だから嫌うんだ、と思うようになった。見ていて思ったけど、あれって自分だ。若さ故の気持ち悪さへの忌避だ。未熟さを憎むのも、過去の自分が通ってきたからだ。だからこそその気持ちがわかるし、わかるからこそムカつくんだ。この映画のテーマって時間だったっけ?と思い始めるし、前半のあの気持ち悪さが仮に意図されたもの(メタ鑑賞する人間用に)なのだとしたら、これってかなりハイレベルなオモシロ映画なんじゃないだろうか。仮にそうだとしたらそれにサブカルやら学生生活、何かへの悪感を程度の低い若さゆえのものとして低俗化させてしまっていて非常に不愉快ではあるのだが。それはちょうど学生運動や政治的行動を、若さゆえの病として日本社会がレッテル張りして封じ込めたことと酷に類似している。

まとめに入る我々

 ということで気付けば意味がわからない文字数を書いていた。卒論以前に大学の単位もとれていないのに・・・。しかし何かを貶すのは非常に簡単で、褒めるのは逆に難しいと気づいた。だからいくら嫌いでも何かを生み出す人にはそれなりに敬意を払いたくなった。ここまでの長文駄文にお付き合いいただきありがとうございます。


Today’s りんぽよズ ポイント




セブンティーファイブ👊


BYE


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