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「普通」と言う排他主義

自戒を含めて、書きます。

ついつい、「普通に」とか「きちんと」

「しっかり」を多用してしまう。

自分の親世代が小さい頃から
囁いてきた
人生の進みかたが、全然しっくりこなくなってきた。

今年親戚からもらった年賀状に
「はやく親を喜ばしてあげなさい」的な文言があり、親孝行はしたいが
自分の大事な人生の決断を親のためにするのは、かなり違和感がある。

「孫を見せてあげる」
「家を建てる」
等々

多分、昔のホームドラマでは最終回にきそうなイベント。
今は、それがあったところで
「ハッピリー エバー アフター」
とは、いかない。

人生100年時代も嘘臭いし
自然災害だって
国際問題だって
なんなら明日健康体で起き上がれるかも
わからない。

誰だって未来はわからないくせに
何かしらの人生のイベントをこなせば
なんだか「普通の」幸せが手に入る、、、
それが戦後の価値観だったのかもしれない。

まだ年功序列な給与体系で
二馬力になれば、なんとなく
生活に潤いができそうな幻想
が、親世代の結婚であり、親族を増やすことで、お互いに支えあう気概があったのが
昭和だったのかもしれない。

今は、成人しても就労できる保証はなく
歳を重ねれば、給与が増える時代でもない
若い方が経済力があり、なんなら良い生活をしかねない時代だ。

だからこそ、今は自分自身を支えるので精一杯な自分がいるのだろうと、私は思っている。

こんないっぱいいっぱいな生活に、赤の他人と暮らし、共存する未来は見えない。


「それが普通」は、その言葉を放つ本人の軸であり、他者からしたら全くかすりもしない価値観かもしれない。

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