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自分を○○する自分

迷いがあるときは、心が弱るし、動きが鈍る。決めなきゃいけないことを決めずに引きずっていると、すでに決めていることにまで悪影響が及んでしまう。

何を隠そう、ぼく自身が4~5月の2ヵ月間ずっと迷いを抱えながらきており、いまだに迷いを絶てずにいるし、その迷いが他に進めようとしているものに覆いかぶさるように邪魔してきて、物事をがんじがらめにしている。

このままじゃダメだなぁと思って、 1ヵ月ほど前から日記をつけはじめた。何に対する迷いかはわかっているのだけど、迷いの本質が見えていなかったからこそ、「言葉にする」作業をなまけちゃいけないと気づいたからだ。もやもやっと浮かび上がってくる曖昧なものに、言葉をあてがって、姿かたちを与え、自分の気持ちを確かめてみる。

1ヵ月が過ぎ、その作業は決して無駄じゃなかったと思うのだが、迷いは残ったまま、決めきれずにいる自分がいるのは変わらない。ただただ心に思いう浮かぶのは「情けない」の一言なのだが、現時点でこれといって大きく動き出せるような起死回生のキーワードがまだ見つかっていないのでますます「情けない」わけで、穴があったら入りたくてしょうがない。

でもよく考えてみたら、こういった状況は初めてのことではないはずだ。これまだも何度も経験してきて、そのときそのときにハゲそうなほど悩んで動いて悩んでどうにか乗り越えてきた。だから、生理現象のように周期的にやってくるものであって、「あ、またか」と理解できるし、むしろ「お、またやってきたね、きみ」というノリと関係性になってはいる。

過去にヒントがあるとしたら、5年前、フリーランスになって間もないときに、ライターとして進んでいくかと迷い、道を決めきれずにいるときがあった。そのときちょうど手にとったのが、芸人としても好きな小林賢太郎の著書『僕がコントや演劇のために考えていること』だった。事細かには覚えていないが、読み進めてハッとしたのは、自分にはどこか「覚悟」が足りてなかったんだなということ。

ほんと単純なことだった。あれこれ迷っているときほど、物事をむつかしく複雑に考えがちみたいで(もちろん、そうやって広げて考える時間があってこそ)、最終的にたどり着くのはシンプルな答え。当時のぼくにとっては、「覚悟」というやつだった。

今抱えている迷いの本質も、そのときの感じに似てるかもしれない。ただ「覚悟」という言葉は本質に擦っている気はしても、しっくりとくるど真ん中の直球でないのも事実。さて、どうしたのものか......。

ああ、そうか、もしかしたら、敵を気にしているのかもしれない。何か(一つの立場)を明らかにし、決断するということは、味方ができると同時に、敵をつくることにもなる。それは、どんな選択をしてもゆるぎないことで、言ってしまえば、だれかからの攻撃を避けては通れないことである。つまり、覚悟をすることは、敵をつくることを覚悟することになる。

ぼくは、敵にビビっているのかもしれない。5年前にだって同じようなことを通ってきてはいるので、敵ができてしまうことは覚悟できている。ただ、段階が変わり、そのときよりも大きなものを敵にしてしまうことがわかっているからこそのビビりとでも言おうか。

怒られたり嫌われたりは慣れていますよ、ぼく(笑)。

最近チラッと読んだ記事が、えぐるように心に突き刺さってくる。奇しくも、またも、小林賢太郎の言葉だったわけだ。頭が上がらないっす。

ということで、なんとなく迷いの本質が見えてきたかもなぁ(まだジャストフィットする言葉は見つからないけど)。そうであれば、思うことはただ一つ。

「そんなん知るか、ボケぇ! 甘えてんじゃねぇぞ」

だ。敵はぶちのめしてやりゃいいんだ、そんなやつらは。そのためにも、自分がどんなことを積み重ねていけるのか、どんな技術を持っているのかが大事になってくる。だからこそ、足跡を気にしながらも前には進み、ひたすらにがむしゃらに技を磨いてけ。迷ってる暇はない。決めること決めちまって、間違っていると途中で決まったら軌道修正すりゃいい。足踏みしてる時間がもったいねぇ。

ふぅ、ここまで書いたら、スッキリしたや。

自分を甘やかすのは自分だった。自分を突き動かすために、自分を叱るのも自分、自分をほめるのも自分、自分を許すのも自分、たいていのことは自分でどうにかなるし、どうにかしたい。それでもどうしてもダメなときは、参っちゃったときは、まわりに甘えちゃおう(ごめんなさい、だけどまじで頼りにしてます)。




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