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情報感度を低くする。

今まで何度となく繰り返してきたことだが、一ヵ月前くらいにまたFacebookアプリをスマホから消去した。

アプリがあると無意識にタッチして、スーっと縦に指を動かしタイムラインを眺めては、気にある記事を保存したり、読み込んだりして、一度開けば、いつの間にか5分以上も持っていかれてることばかり。

ただでさえ、Twitterやnoteをだらだらと読んでしまうのに、Facebookまでも!となるとしんどい。

手持無沙汰でTwitter→note→Facebook→Twitter...という無意識のスパイラルに陥ってることが時たまあって、「ああ、ぼくは脳で考えるよりも前に、デジタルの奴隷になり果てた指で自分の習慣を決められ、自分の時間を自分でむだに奪っているのか」とハッと気づき、自分にげんなりもする。

さて、スマホアプリを消去すると、Facebookをまともに開くのは、PCで、自分が投稿するとき、コメントを返すときになる。一日1~3回くらい。

「PCで」という条件を自分でつくると、気持ちはだいぶ楽になる。スマホ徘徊するときは、たいていが、ふわふわと心定まらないときだからだ。その状態からいくらか解放される。

衝動的、無意識に、むやみやたらに開いていたスマホに比べると、時間の節約ができている気がするし、なにより情報収集する時間が減る。そのぶん、何をつくろうか、何を書こうか、について模索し、実践する時間が増える(あ、猫を撫でるような時間も増える)。

これまでは職業柄もあって、情報感度高く、いろんなものをわけ隔てなくとにかく仕入れておこうという気持ちがあったが、今はどちらかといえば、情報感度を低くして、自分が想像し創造する時間を増やしたいという気持ちが強くなってきている。

リアルタイムで情報鮮度が高いネットもいいんだけど、紙や舞台などの現場で仕入れたい感覚ってあるし、それら情報も何かしら実践していくなかで困ったときのサバイバル手段として、あるいは、自分の健康維持のために欲しいもの。

言い寄られたら断り切れずつい受け入れてしまう人みたく、惰性で情報をほいほいと集めるのは止めよう。今の自分が身を滅ぼさないためにも。

情報感度を低く、低く、自分が胸騒ぎしてしまうくらいなら、知らないほうがいい。数年前まではガツガツ取りにいかないと手に入らなかった情報が、もはや遮断しようとしないと抗えない時代になったんだなぁ。

もしも投げ銭もらったら、もっとnoteをつくったり、他の人のnoteを購入するために使わせてもらいます。