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筆圧と生活

思うように線が引けないことをずっと気にしていた。30年間ずっと。

それは字を書くとき、図形や絵を描くとき、きれいに筆を入れたるぜという意識が欠けているだけだと思っていたんだけど、実はそれは原因の葉っぱ程度でしかなく、根っこにあるのはペンの持ち方だった。

よくよく考えてみれば、ぼくの文字は元からクセがある。筆圧がやたら強いせいか、ビーっと一本の縦線を引くときも、書き出しの太さとペンを紙から離陸させるときの細さのギャップが激しく、それでもって全体的にカクカクした面をしている。

それをかたちづくっているのは、指が一本ズレた持ち方。通常正しいとされるのは、ペンを人差し指と親指で挟みこんで中指に乗っける、というようなものなのだけど、ぼくの場合は、ペンを中指と親指で挟み込んで薬指に乗っける、というお隣から失礼しますスタイルなのである。

その持ち方も文字のクセにも、今まではあまり気にしないようにしてたけど、それは「臭いものに蓋」状態でしかなかった。本音では「もうちょっと、こういうふうにビシッと線を引けたら」「円をきれいにまんまるに描けるといいんだよな」「とにかくキレが欲しいのよ」などと思い、イメージ通りにならない線に苛立ちを覚えることが幾度もあった。

妙に几帳面なところもあるので、気にならない文字があると、すぐに消したくなる。ボールペンで書いてしまったら、横線を引いてぐじゅぐじゅにするのだけど、大事なのは書いている内容なのに、書いてる文字が気になっちゃって、メモが遅れることなんてことも学生時代はよくあった。

ここ数年は、いつでも書き直せるようにと、パイロットの消せるボールペンflixion0.38mmを愛用するようになっている。とはいえ、根底にある、「思うようにうまく線を引けない」問題の解決方法でなはく、逃げ対策でしかなかったのだ。

で、「思ったように書けるように意識を変えよう」と意識を持ってやってみても、どこかに限界はあるし、どうしたもんかと思ったときに、やっとそもそも持ち方がズレてるんだったことに今さら気づいたのだ。

「思うがままに書く」と「正しく持つ」がリンクしていなかったのだけど、あらためて、持ち方を変えて、文字を書いてみると、びっくりするほどに、ペンの筆圧をコントールできる。これまでの最大の難関は、素早く手記するときに力が貼りすぎてうまくペンが滑らず文字崩れが多かったのが、一画一画の線がしっかり入ってる感覚がある。なめらかにまるみある線を引ける。

その違いに、いくらでも想像を広げられる自由な紙に対して、いかに自分が不自由の筆で挑んでいたかを痛感する。

ああ阿保だったんだなおれは、これだったのだ、持ち方を変えりゃいいだけだった。

ジッと睨んでいたところが間違っていた。氷山の一角しか見えていなかったとはこのことだ。単に、がんばり方がズレていたんだなぁ、とトホホな気持ちでいっぱいだ。

筆圧をコントロールできるだけで、作業における心地よさがこんなにも違うんなんて!という清々しい発見があったし、これまでのなかかに抜けなかった筆圧の強さが自分のあり方を表していたようにも思え、急に恥ずかしくなってきた。

その筆圧で自身の生活とそこにまつわる人たちとの関係性を築いてきたと思うと、抜ききれない力強さのせいで、できなかったこと、ないがしろにしてしまったものも沢山あっただろうに。

力を抜き、思うがままに、ゆるやかな線をスッと引けるように。

そういう姿勢は崩さないで、これからの生活を営んでいきたい。持ち方あらため、気持ちあらため。






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