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あそび場、まなび場

あそび心がないと、さみしい気持ちになる。

この「あそび心」というのは、物事を眺めたり、向き合うときの視点をズラすことで、新たなおもしろがり方を見い出し、その方を変えることだとぼくは思っている。

「いつもの通勤路で、飲食店は何件あるのか、と数えてみること」
「食器洗いを、毎回何秒で終わらせることができるか、と記録に挑んでみること」
「天気雨に出くわしたら、あいつの仕業だな、と狐の嫁入りを想像じてみること」

などなど、考え方をほぐしてみると、なんらたいしたことない普通のことが、ちょっと特別なように感じる。あそび心は、スパイスみたいなもので、いつも口にするまんねりなものに、ほんのり刺激を与え、味わい方を幅を広げてくれる。

だから、あそび心は大事だし、それがないと、全くもってさみしいのだ。

以前、「過ごし方を教えてくれる人」はよい場をつくる、と書いたことがあった。心地よさをデザインできる人は、安全・安心の場だけじゃなく、あそび心を発揮し、その場の楽しみ方を広げてくれる人でもある。そして、そこで留まらず、あそびの中に、まなび(気づき)があるのだ。

彼/彼女らがDJだとしたら、ぼくらは知らず知らずのうちに、身体がリズムに反応し、踊りはじめていて、心地よく踊り終えた頃には、新しい世界観を手に入れてる、というあんばいだろう。

おそらく、彼/彼女らは知っているのだ。まなびをまなびとして提供するのではなく、言葉を変え、見せ方を変え、体験を変えることで、新たなまなびにつながることを。その根っこには、あそび心がある。

知人でいえば、ハルくんはそういう気質のファシリテーター(グラフィッカー)と思っている。「教育」分野にずっといるし、現・小学校教員であるからこそ、というのもあるのかな。

あそび場であり、まなび場である。そして、人によっては、つなぎ場になる。そんなかたちをひっそりと意識しながら、ぼくはぼくなりの場をつくっていきたい。

そういや、ちっちゃい頃は、よくガキどもで公園に集まっては、ごっこあそびをやっていた。オリジナルルールのあそびとかも考えたなぁ。実は、あそびをつくることもまなびだったのかも。

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