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他人のラベリングにひれ伏さないよう。

昨日書いた「自分が何者か」についての日記がいつもよりも多く読まれていた。自分のために書いているものが、他人のなにかに重ねてもらえるのはびっくりするし、うれしいことでもある。

実は、昨日書きながらに、これについても書いておきたいなぁ、ということがあったので追記しておきたい。

小さい頃から特撮シリーズが好きで、そのなかでも仮面ライダーに心を奪われた。昭和生まれってのもあって、V3やブラックRXなどの昭和ライダーに馴染みが深く、どうしても平成ライダーがとっつきにくいままにきていた。

ただ2年前に、Amazonオリジナル作品として、昭和ライダーのアマゾンがリメイクされるという話を聞いて、『仮面ライダーアマゾンズ』を観ることにした。

1~3話を観てすぐに、これまでにあったぼくのなかの平成ライダーのイメージを覆してくれる作品だと直感した。大自然のなかで躍動する元祖アマゾンの野生感は残しつつも、舞台を現代日本の都会に移し替えた、理にかなうストーリー展開となっている。

大手製薬会社の実験から生み出された人工生命体「アマゾン」。彼らは人間の姿になって社会に潜伏しているが、人間の肉を食らう本能に目覚めると凶暴な怪物に変貌してしまう。人間であり「アマゾン」でもある2人の男、水澤悠=アマゾンオメガと鷹山仁=アマゾンアルファは、人間を守るため「アマゾン」と戦う宿命を背負っているものの、「アマゾンでも人間でも、守るべき者を守りたい」という悠と、「自分を含むすべてのアマゾンは問答無用でこの世から消し去る」という仁の考えは真っ向から対立する。https://news.mynavi.jp/article/20180508-amazons/

”人食い細胞”を扱うのもあり、バイオレンスに満ちてて、ちょっとグロいシーンもある。また、大きなテーマとして「生と死」が扱われているため、アマゾンズは大人向けの仮面ライダーな気がする。

ここでやっと「何者か」問題に触れるんだけど、全2シリーズで展開していくアマゾンズだが、ぼくが気になったのは、1シリーズで主人公の水澤悠が自分がアマゾンだと自覚がないままにアマゾンになってしまい、自分が「人間なのかアマゾンなのか」に葛藤する姿が数話にわたって描かれていたこと。

「お前は心では人を食いたいと思ってるアマゾンだ!」と言う者がいれば、「人間であってほしい」と言う者もいる。アマゾンと人間のどちらが敵なのか。心は人間だが、姿はアマゾンであるがゆえに苦しむ悠。

「本当の自分は何だ?」「自分はいったい何者なんだ?」という問いが続いていく。そこで、とある登場人物にこんな一言をかけられる。

「問題は、どうするか、どうしたいか、でしょ」

他人が見える自分、他人がこうあってほしいと願う自分ではなく、姿かたちが違うという事実を受け入れたうえで、じゃあ自分はどうありたいのか、と考えるはじめる悠。そこで出した一つの答え。

「守りたいものは守って、狩りたいものは狩る!」

ここで悠は、相手が人間であろうが、アマゾンであろうが、自分が信じるもののために戦うことを決める。

本能に従ってただ人を食らうアマゾンでもなく、同じ人間でありアマゾンでもあるがアマゾン全抹殺を考える鷹山仁でもなく、自分の正義のために両者と戦う”第3のアマゾン”として悠は存在することになる。そこから、新たな展開へと進んでいくのが、1シリーズ前半でのこと。

悠の決断と行動を眺めながらに思ったのは、他人が付けたラベルを蹴とばすかのように、自分自身の気持ちに目を向け、新たな(中立の)立場をとることで、(曖昧でよくわからない謎は続くが)第3のアマゾンとしての認知されるようになる。

この一連が、昨日書いた「他人から見た『自分が何者か』が変わっていく」ことであり、「(自分が)何者かを(自分で)決めずに、ずっと何者かを確かめ続ける」ことだとぼくは思った。

一つ新たな解釈を加えるのであれば、悠は、「人間」か「アマゾン」の既存の二択から「何者か」を決めるでなく、「自分がどうありたいかの(=何が嫌で、何をしたいのか)」という意思から、新たな立場を確立したんじゃないか、ということ。

「何者であるか」に囚われないにしても、自分の意志は必要であり、それがなければ受け身で他人のラベリングにひれ伏したまま生きていかなければならない。他人が名づけようとするものに意を反するなら、抵抗は不可欠だ。

もしかしたら、自分がありたい自分(主観であり理想)と他人から見える自分(客観であり事実)が一致するのは幸せなことかもしれない。だけど、人の数だけ解釈があるわけだから、それはなかなかに問屋が卸してはくれない......。

自分がどうありたいか、その上で何者とされるのか。何者かは他人に委ねられてはいるけど、他人に全てを委ねてもいけない。主客のせめぎ合いがあるなか、絶妙なバランスをとりながら、自分の居心地の良いあんばいを探していく。

生きるってほんとめんどくさい。けど、そうやって苦しみながらも生き長らえると、思わぬ気づきがあり、その気づきはめんどうくさいの蓄積ありきだったりするから、陳腐な表現だとは感じつつも、生きるっておもしろい。

とりあえず、明後日から大阪京都なので、アマゾンズの完結編映画を観にいこうかなぁ。

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