ゴブリンとゴミひろい

最近になって『ゴブリンスレイヤー』をAmazonPrimeで観はじめた。ライトノベル発で漫画化され、後にアニメ化された作品で、「最下級モンスターと言われるゴブリンのみを狩る主人公(ゴブリンスレイヤー)の物語」である。

Netflixオリジナル『DEVILMAN crybaby』と同じくらい、血しぶきがやたら飛ぶので、表現としてちょっと過激かもしれないけど、「人間味に欠ける主人公がなぜゴブリンを狩るのか」という心象や、SFっぽく物語におけるゴブリンの設定(ゴブリンは月からやってくる、ゴブリンの階級、ゴブリンの習性etc.)に興味が湧き、つい10話までを一気観してしまった。

大きな物語に流されがちだけど

冒険者としてのランクは高いにもかかわらず、上級のドラゴンよりも下級(とされる)ゴブリンを狩ることしか考えない”ゴブリンバカ”とも言える主人公が、グッとくる台詞を言っていた。

俺は世界を救わない。ゴブリンを殺すだけだ。

つまり、魔王を倒して世界を救うことに興味は一切なく、村を襲って人を連れ攫うゴブリンのほうが厄介で、殺すべき存在なので、彼は冒険者に人気のないゴブリン案件しか引き受けないという意思の表れでもある。

ここでふと思ったのが、「大きな物語」vs「小さな物語」という構図について。勇者をめざして世界を救おうとするのが大きな物語とするなら、たとえ救われる人がいたとしてもゴブリン退治なんてのはごく小さな物語として扱われてしまう。

この作品のおもしろいのは、あえて「小さな物語」にフォーカスを当てているからで、さらには多くの冒険者が甘んじてるゴブリン退治が知らず知らずのうちにじつはもっと大きな悪の根源をつぶすことに繋がっていることを描いているから。

そこで思い出したのが、大学生のときに「世界の環境問題を解決したい」と意気揚々と口にするやつのことだった。世界規模で、大きな物語に乗っかることを夢見ていた彼ら。そのわりには、キャンパス内にちょこまかと転がっているゴミについては清掃員任せ。

ゴブリンスレイヤーが「魔王討伐は勇者に任せとけ」というように、もちろん役割分担ってのはあるんだけど、それでも身近ですぐできることを手放しちゃってるのは不思議でしかなかった。

そいつと併せて思い出すことがある。小さい頃よく近所のおじいちゃんが周辺のゴミ拾いをしていた。あのときは何にも思わなったけど、今になるとわかる。だれに何を言われようが言われまいが、あのおじいちゃんがゴミ拾いをしていたことの凄みを。

遠くばかり見て、足元が見えない

近所のゴミ拾いなんて、小さな小さな物語でしかないのかもしれないけど、そこに身を置いて、この小さな物語の積み重ねたり、またどこかの小さな物語との重なったり、その繰り返しが大きなうねりとなって物事を変えていくように思う。

めざそうとしないと辿りつけない場所はあるんだけど、遠くばかり見てないで、自分の半径うんメートルをまず見てみること。自分と自分のまわりにいる人の足元に何があるのかを見逃さないようしたい。

だってそれがぼくらが立つための基盤でもあるわけだし。そこから踏み歩いて、遠くをめざして向かえばいい。一歩ずつ一歩ずつ。

気持ちだけ高ぶっちゃって、ふわふわっと踵もつま先も何も感触つかめずに進んでいくは、まぁこわいし、地に足がついてないのってなんかカッコわるもんなぁ。

さて最新話はいつごろ配信になるんだろ。待ち遠しい。

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