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なぜ勉強するのか。

「どうして勉強しないといけないのさ」

いつかは、どこかで、こんな質問が飛んでくるんじゃないかと思うと心がちょっぴりザワつく。もしも、自分の子どもから質問される日がきたら、どう答えるのがいいのだろう。

その子がどんな子かによっても、答え方は気を付けたいのはあるし、決まりきった一つの正解があるものでもない。そこですこし考えてみた。ぼくなら子どもにどう答えようかなあ。

うーーーん、勉強するのは、「やさしい人になるため」じゃないだろうか。

相手の行動や言葉の根っこにある考えを知りたいとき、その視点(型)をつかむために、勉強はむちゃくちゃ役に立つ。シンプルに、いろんな考え方を知ったり、物事の捉え方が広がれば、相手に対する理解は深まっていく。

一つの考え、自分の考えだけに意固地になったり、それを相手に押し付けたりするのは、やさしさじゃない。相手に歩み寄ってみて、自分の考えとは切り分けて、寛容できること、それを個性と認めたり、それを活かせる道を一緒に考えていけるのが、一つのやさしさじゃないだろうか。

もちろん、勉強だけして頭でっかちになるのはよくなくて、自分で考えて(仮説を持って)自分で動いてみて、自分のからだで経験を重ねていくのも大事なことだ。あ、いやむしろ、何でも調べられる時代になってきたから、今はそっちのほうが大事かもしれない。

ただどうしても自分の経験だけでは知ることのできない”立場”だとか”思考”だとかはあるから、ぼくらは勉強をする。同じ世界でずっとずっと昔に暮らしていた先輩たちの経験と、そこから見つけた知恵を借りることができるのが、「勉強する」の先にあることなんじゃないかなぁって。

あとついでに言っておくと、算数でも国語でも、社会でも何でもいいけど、その勉強をしているときはわりと気づかないけど、ぼくらは自然と「自分に合った勉強方法」を探っていたりする。

それは、いつか自分が「もっと勉強してみたいな!」と思うものを見つけたとき、身につけるスピードを上げてくれたりもするから、どんな勉強方法が自分にしっくりくるか、その感覚も大切にできると、後々ラッキーなこと起こるよきっと。

不思議なもんで、英語で身につけた勉強方法が、カクテルの勉強だとか、書く仕事で知らないことを調べなくちゃいけないときとか、べらぼうに役に立っていたりするし。

まあ、そんなこんなで、勉強ってのは、いろいろ面倒くさいときもあるけど、わりといいやつだし、子どもだけじゃなくてああ、大人になっても付き合っていきたいものなんだよね。むしろ、勉強しなくなった大人は、どんどんカッコわるくなっていくからさ。

・・・・・・みたいなことを言えたらいいよねぇ。でも、もっといい答えはあるんだろうし、そのときがくるまで、ぼくももっとちゃんと勉強しておこう。

そういえば、学生のときに、ある先輩と『ちいさな哲学者たち』っていうフランス映画を新宿武蔵野館に観に行って、鑑賞後に近くにあった地下の喫茶店で、「なんで勉強するんだろね」について話してたら、彼はなんか一方的に機嫌をわるくしていたのを思い出した。いやあ、その先輩に同じことを言ってやりたいすわ。

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