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北九州キネマ紀行【小倉編】「銀河鉄道999」は小倉から旅立った〜漫画家・松本零士が乗った東京行き夜行列車


高校時代から新聞に連載を持っていた

「銀河鉄道999スリーナイン」などの作品で知られる漫画家・松本零士さん(以下、敬称略)は2023(令和5)年2月13日、85歳で亡くなった。

松本は福岡県久留米市生まれ。
小学校から高校時代を現在の北九州市・小倉で過ごした。
小倉南高校の生徒だった松本は、当時すでに毎日小学生新聞で連載を持つなど、その才能を開花させ始めていた。
松本の漫画家としての〝原点〟は小倉で育まれたと言っていい。

北九州市は、松本ら数多くの漫画家を輩出した。
松本は「北九州市漫画ミュージアム」(北九州市小倉北区)の初代名誉館長も務めた。

なぜ北九州市から多くの漫画家が生まれたのか。
それは大手新聞社の西部本社があったこととも関係している。
松本も、その新聞社に出入りしていた一人だった。

松本の代表作の一つ、「銀河鉄道999」の劇場版アニメ映画は1979(昭和54)年に公開され、ヒット。
その中のワンシーンは、松本がプロを目指して、小倉から上京した時の気持ちが込められていた。

劇場版「銀河鉄道999」ドルビーシネマ版解説動画(8分36秒)

「自分の人生をかけて旅立った」

劇場版アニメ「銀河鉄道999」の主人公は、星野鉄郎少年。
永遠の命を約束する機械の体をただでくれると言う星を目指し、謎の美女メーテルと銀河超特急999号で地球から宇宙へ旅立つ。

夜空へ 蒸気機関車は走る

この999号が地上から夜空に旅立つシーンについて、松本は新聞記事の中で次のように述懐している。

2人(鉄郎とメーテル)が乗る最先端の宇宙列車はレトロなSLの外観だ。
それは高校生の時にデビューした松本さんが卒業後、福岡・小倉をたち活躍を夢見てSLで上京した時の決意を反映させたから。

「真っ暗な関門海峡をくぐり下関側に出ると別世界。死んでも帰らないと自分の人生をかけて旅立ったあの時の感情を描いた」
(松本)

2018年3月26日読売新聞夕刊「名作を訪ねて〜『銀河鉄道999』」

(九州から本州へ渡る鉄道は、関門海峡という海の下のトンネルを走る)

車外の闇夜が星の流れに変わった

松本が小倉から東京へ旅立ったのは1957(昭和32)年。
書店には子ども向け月刊漫画雑誌が並び、漫画の貸本屋も健在だった。
漫画界は、新しい才能を必要としていた。

松本が小倉から上京した時の心情について、松本の著書から引きたい。

18歳の時、出版社からの依頼で、私は上京することになりました。
夢に向かって覚悟を決め、東京へ行くために、九州の小倉から夜行列車に乗ったのです。
その時のことは今でも鮮明に記憶に残っています。
当時は、国を越えて旅をするぐらいの途方もない距離感がありました。


(中略)

(車内では武者震いする思いだったが)すると、車外の闇夜が、次第に星の流れへと変わっていきました。
それはまるで星雲の中を走る列車のようです。

松本零士著「君たちは夢をどうかなえるか」
夜汽車に乗って東京に向かった

小学生新聞に入れるはずだった

松本は小倉南高の時にデビューした。

「毎日小学生新聞に見る子ども世相史」(毎日新聞社学生新聞本部編)に「天才少年漫画家 松本零士のデビュー」という章がある。
ここから松本の当時のストーリーを要約すると‥‥

  • 1956(昭和31)年当時、毎日新聞西部本社は小学生新聞を発行していた

  • 編集部長が松本の実力を認め、起用を決める

  • 高校生の松本は、毎日小学生新聞に「アリとミツバチ」「テントウ虫坊や」などを連載(筆名はマツモトアキラ)

  • 松本は連載中、自分が描いたものが印刷されるまでの製版工程や印刷効果などを実地で猛勉強した

  • しかし、編集部長が大阪に転出すると、松本は「小学生新聞に嘱託で入れる」という約束が、後任の編集部長に引き継がれていなかったため〝クビ〟に‥‥(1956年8月、西部本社の学生新聞編集部は廃止)

松本が上京したのは、この後だった。

漫画を描くことが青春だった

北九州はなぜ多くの漫画家を輩出したのか

北九州の新聞社で仕事をして有名になった漫画家は、松本にとどまらない。
ほかによく知られているのは、関谷ひさし(1928〜2008)や、ムロタニ・ツネ象(1934〜2021)ら。
(関谷は「ストップ!にいちゃん」、ムロタニは「地獄くん」などの作品が有名)

こうした背景もあって
北九州市漫画ミュージアムは2022年、「〈新聞〉がつないだ漫画家たち〜北九州の漫画文化を育てたもの〜」という開館10周年記念の特別展を開催した。

この特別展のフライヤー(PRチラシ)には、「北九州には、どうして漫画家が多いのか?」という問いに対して、次のように書かれている。

門司や小倉に集中した新聞社の漫画家たち。
広告業界の漫画家たち。
製鉄業界に勤め、社内報や組合紙で筆をふるった漫画家たち。
北九州・福岡の漫画家の一大サロン「九州漫画家協会」‥‥。
地域誌・タウン誌や同人誌も含め、マスコミからミニコミまで多種多様なコミュニティとメディアに漫画家たちが集い、腕を磨きあったのです。

「〈新聞〉がつないだ漫画家たち」のフライヤー

「まんが新九州」という新聞

フライヤーの画像に見える「まんが新九州」は1948(昭和23)年に創刊され、1952(昭和27)年に廃刊した子ども向け漫画新聞。
夕刊紙を発行していた「新九州新聞社」(所在地は現在の北九州市門司区)が10日に1回発行していたもので、編集長は毎日新聞社から出向していた。
短命に終わった新聞だったが、子ども向け新聞漫画は毎日小学生新聞などで引き続き展開され、松本らに活躍のステージを提供した。

なぜ子ども向け新聞が活況を呈していたのか。
それは一つには当時、新聞が巨大なメディアだったから。
新聞社の側からすれば、将来のお客さん(購読者)になってほしいという願いを込めて、子ども向け新聞にも力を入れていた。
(ちなみに手塚治虫のデビューも毎日小学生新聞)
こうして北九州の新聞社は、戦後の漫画文化を創造する一翼を担った。

門司掖済会病院(北九州市門司区清滝)には、かつてここに毎日新聞西部本社があったことを伝える碑が建つ(写真上の左側)。碑には「毎日新聞西部本社発祥之地 1922年11月印刷開始」と刻まれている(写真下、1922年は大正11年)。毎日新聞西部本社は1965(昭和40)年、小倉に移転

「オレの一番好きな町」小倉

松本の話に戻りたい。
松本の著書「君たちは夢をどうかなえるか」には、松本の少年時代の自伝漫画「昆虫国漂流記」が掲載されている。
戦争が終わって愛媛県の山村から「都会」へ出てきたくだりで、松本はこんなセリフで小倉を紹介している。

「それがオレの一番好きな町 九州の小倉なんよ‼︎」

松本は、この本の中で戦後の思い出について、次のように述べている(要約)。

  • 終戦後間もない当時、進駐軍のゴミ捨て場があった

  • ここには、古くなった家庭用映写機やミュージカル映画、アニメ映画のフィルムの端切れが山のようにあった

  • それは、私にとって宝の山だった

  • 映写機を修理し、フィルムの端切れをつなぎ合わせて見た映画のシーンや構図は、間違いなく自分の血肉になった

「銀河鉄道999」は、鉄郎少年の成長・冒険譚。
松本の表現者としての成長・冒険ストーリーは、小倉から始まった。

松本は「君たちは〜」の中で次のようにも述べている。

実写映画も作ってみたい。
映画への夢は膨らむばかりで
映画監督は、私にとって見果てぬ夢なのです。

若き日の松本は、おそらく小倉の映画館でも数多くの映画を見たことだろう。
そんな松本が小倉にずっと思いを寄せていたことは、小倉にお越しいただければ、お分かりいただけるはず。
JR小倉駅やその周辺を歩くと、松本作品のキャラクターたちが出迎えてくれる。

JR小倉駅から「銀河鉄道999」のキャラクターをラッピングした北九州モノレールが〝飛び立つ〟
JR小倉駅の北側デッキに行くとキャラクターたちが出迎えてくれる
北九州市漫画ミュージアムはここからすぐ近く

そのほかの参考文献
2022年10月8日毎日新聞(西部本社版)「新聞が育んだ漫画文化 戦後の北九州 専門紙、若手育成」


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